大庭葉蔵は、酒と薬に溺れ廃人と化し、世間から転落することで「人間失格」とされた。

彼は臆病な人間である。その臆病さ故に人を恐れ、社会を恐れ、幸福を恐れ、転落した。しかし、彼はそれでも人間と繋がろうとして、世間を理解しようとして、少しずつ自分から行動することも出来るようになったのだ。彼はタバコ屋のヨシ子が犯され、酒に溺れ、薬物中毒になるまでは、間違いなく人間であった。世間が彼を人間に値するとしていたのだ。

人間失格を読む度、寒気がする。葉蔵のような、いわばダメ人間は、現実にはそうそういないだろうが、実際に居たとしても、作品通りに人間として扱われるだろう。では、私はどうだ。自分が何よりもかわいく、のらりくらりと人を躱し、自分では動かずただ与えられる物だけを受け入れて生きている。果たしてそれは人間と言えるだろうか。
彼のように臆病ではないし、酒や薬に依存することもないし、女と心中することもない。けれども世間を嫌い、繋がることも時には拒否し、だらだらと生きているだけの私は、人間とされるに値するのだろうか。画家を志した彼のように、世間を理解しようとした彼のように、何かを為そうともしない私は、人間なのだろうか。

大庭葉蔵のようにはなってはいけない。けれども、今の私は「人間失格」とされる資格さえも、持ち合わせていないように感じる。人間とされるに値しない。人間失格を読んで「彼もまた人間である」という結論を出すのは、あまりにも愚かだし、わかったようにそう語る人を今まで軽蔑してきたが、今は彼のほうがよっぽど人間であると感じてしまう。