ふと、老いることが怖くなった。
いつものようにバイト先にくる老人を捌きながら、何故若人が出来ていることが、齢六、七十になると出来なくなるのか、体は衰えても経験は消えないはずなのに、何故あんなに恥ずかしい行いをしてしまうのか、疑問に思った。脳が萎縮するだとか、機能の低下とかという理屈は知っているが、それだけが原因ではない気がしていた。
亀の甲より年の功、という言葉がある。老人は経験が豊富なため、尊敬し、その話をよく聞いておけという意味の言葉だ。実際、この言葉は真実だと思っている。我々は現在を生きているため、過去に起こった出来事を追体験することは出来ても、その出来事そのものを体験することはできない。戦争の恐ろしさをその身で知るには、自ら戦火の中を生き延びねばならない。今の科学技術では不可能な領域だ。
老人は、その年の分だけ経験を積んでいるはずである。現代社会のルールの中を若人よりも長く生きているはずである。そのルールは時代が動くに連れ変貌してきたが、本質的な部分は変わっていない。「人に迷惑をかけない」という共通の不文律が、いつだって人間の中にあったはずだ。
私はその不文律を犯す老人を見て思った。彼らの中の経験が、彼ら自身を尊いものだと錯覚させているのだ。豊富な経験を基に何かを生み出さねば、それは役に立たないコレクションの一部でしかない。生み出されたものが知恵となり、後の時代にも引き継がれていくのだ。彼らの中にも、知恵となりうる何かがある、きっとあるはずだ。なのに、彼らはそのコレクションを抱え、傍若無人に振る舞っている。
私は怖くなった。私もいずれこうなるのか、自らは何も生み出さないのに、これから経験を積み歴史を作る若人に対し、役にも立たないコレクションを振りかざし横暴な態度を取るその恥ずかしい姿に、人間としての価値がゼロになったその姿に。
これから生きていくにつれ得られる経験は、きっと私を勘違いさせる。目の前の老人に、自分のその姿がはっきりと映し出されているようで耐え難かった。未来の私は今の私に顔向け出来るか?そう考えると、その場で舌を噛み切りたくなってしまった。
いつものようにバイト先にくる老人を捌きながら、何故若人が出来ていることが、齢六、七十になると出来なくなるのか、体は衰えても経験は消えないはずなのに、何故あんなに恥ずかしい行いをしてしまうのか、疑問に思った。脳が萎縮するだとか、機能の低下とかという理屈は知っているが、それだけが原因ではない気がしていた。
亀の甲より年の功、という言葉がある。老人は経験が豊富なため、尊敬し、その話をよく聞いておけという意味の言葉だ。実際、この言葉は真実だと思っている。我々は現在を生きているため、過去に起こった出来事を追体験することは出来ても、その出来事そのものを体験することはできない。戦争の恐ろしさをその身で知るには、自ら戦火の中を生き延びねばならない。今の科学技術では不可能な領域だ。
老人は、その年の分だけ経験を積んでいるはずである。現代社会のルールの中を若人よりも長く生きているはずである。そのルールは時代が動くに連れ変貌してきたが、本質的な部分は変わっていない。「人に迷惑をかけない」という共通の不文律が、いつだって人間の中にあったはずだ。
私はその不文律を犯す老人を見て思った。彼らの中の経験が、彼ら自身を尊いものだと錯覚させているのだ。豊富な経験を基に何かを生み出さねば、それは役に立たないコレクションの一部でしかない。生み出されたものが知恵となり、後の時代にも引き継がれていくのだ。彼らの中にも、知恵となりうる何かがある、きっとあるはずだ。なのに、彼らはそのコレクションを抱え、傍若無人に振る舞っている。
私は怖くなった。私もいずれこうなるのか、自らは何も生み出さないのに、これから経験を積み歴史を作る若人に対し、役にも立たないコレクションを振りかざし横暴な態度を取るその恥ずかしい姿に、人間としての価値がゼロになったその姿に。
これから生きていくにつれ得られる経験は、きっと私を勘違いさせる。目の前の老人に、自分のその姿がはっきりと映し出されているようで耐え難かった。未来の私は今の私に顔向け出来るか?そう考えると、その場で舌を噛み切りたくなってしまった。