「ただいま戻りました〜」
2019年も、ようやくジメジメとした梅雨が明けた。
熊本の梅雨は、いや熊本というよりも九州全体の梅雨は凄まじいのだ。
雨が降る時、まさにバケツをひっくり返したような、土砂降りになる。
営業車を駐車場にとめ、事務所までダッシュする。
わずか10mなのに、ビショ濡れになったシワ坊主は帰社した。
「おーシワ君、ビショ濡れじゃないか」
基本直行直帰が許されるこの会社で、唯一と言っていいほど、毎日夜会社に戻ってきて内勤作業を率先する、国見さんという先輩がいる。
37才で、奥様と3歳の娘さんがいる。
見た目は20代後半に見える、とても若々しい人だ。見た目にとても気を使っているように見える。この業界は、オシャレな営業マンが多いのだ。
(ちなみにシワ坊主は、常に髭を剃った後の青髭が目立つ、髪の毛の量が少しづつ気になり出したブサメンである)
「国見先輩、夜いつも会社いますね。仕事やりすぎじゃないですか?」
シワ坊主は何気なく尋ねた。
国見さんは、会社パソコンのタイピングの手を止め、シワを見上げた。
「シワ君…僕はね、ただ家に帰りたくないだけなんだよ(笑)」
「なんでですか?」
純粋にシワは尋ねる。
「家に帰るとね、妻といつも口論になるんだ」
国見さんは苦い顔をしながら答えた。
この会社には「多様化」という文化が存在している。女性の社会進出はもちろん、LGBTに対しても理解が深い外資系企業である。
女性の幹部社員が30%いる背景から、かつての昭和の時代のような
「男は働き、女は家にいる」
という考えは絶滅しているのだ。ましてや、女性の方が仕事ができるという声もあるくらいだ。
そういう意味で国見さんも、女性に対して敬意を示している一人であり、シワもそういう国見さんの部分を尊敬している。
年収1200万近くあるにも関わらず、本当は時計好きと豪語する国見さんの身につけている時計はセイコーであり、乗っている車はホンダのステップワゴンである。
それは、もともと国見さんが謙虚であるという性格もあるのだろうが、
何よりも家族のために節約する、という自己犠牲の姿が見える。
シワも、こんな先輩みたいになりたい、と考えているのだ。
「口論はね、大したことない内容なんだよ。皿洗いの時に水回りを濡らしたらちゃんと拭けと妻に言われ、じゃあ台所に置いてあるお菓子の袋をすぐに捨ててとオレが言って、あとはぐちゃぐちゃ(笑)」
「国見さんが反論するなんて、珍しいですね」
少なくとも、シワ坊主の中で国見さんのそんなイメージは無かった。
「さっきの話はおおまかに言ったから細かいことを言うとね、
水回りちゃんと拭けって言われたら、『ごめん、そうするよ』て言ってるんだよ。それに対して『じゃあオレからも気になることを言うけどね、お菓子の袋が置きっぱなしが気になるから、それすぐに捨てて』て言うわけよ。それに対して妻が、『すぐに捨てようと思ったの!』て言ってくるんだよ。どう思う?」
シワも、その会話内容がそのままだとしたら、違和感がある、と思った。
「こっちは『ごめんね』て言ってるのに、相手は『ごめん』がないですね?」
「そう、そこなんだよ!」
シワは色々と考えをめぐらせた。
「こっちがごめんて言ってるから、そっちもごめんを言ってよ!」
これは、その問題の程度にもよるし、どっちに非があるかによってお互いがごめんなさいを言う必要があるのかどうか、考えるポイントである。
「わたしはごめんを求めてないからあなたが勝手にごめんて言ってくるだけ。だからわたしにごめんを強要しないで!」
と言われる可能性もあるのだ。
何かの強要は、ただの価値観の押し付けであるからだ。
ただ、国見さんの出来事は、
●水回りに対しては旦那さんが悪い→だから旦那さんは謝った
●お菓子の袋に関しては奥さんに非がある?→しかし奥さんは謝らず反論した
と整理すると、確かにバランスが悪い。
今は、旦那が偉いという風潮のような亭主関白時代でもない。
かと言って、女性が偉いという時代とも違う、と考えている。
夫婦はパートナーであり、両輪であり、平等であるべきと感じる。
だからこそ、お互いが「ごめん」「こちらこそごめん」と
言う関係こそ、「喧嘩両成敗」「仲直り」につながるのではないか?
「出産によって生活が変化しない旦那さん側に原因がある」
と書かれている記事があった。
産後クライシスと世で言われている原因の一つである。
この記事は、正しくもあり、間違いでもあるのでは?と思った。
何故なら、専業主婦になり家事育児に専念すればするほど夫婦関係がこじれたケースが、シワ坊主一家だからだ。
シワ坊主は現在、ある仮説を立てている。
「出産をし、愛する子供がうまれた時点で、旦那は用無しになるのでは?」
という仮説である。
人間界意外に、典型的な事例がある。
カマキリである。
メスのカマキリは、交尾中にオスを食べるという。
理由は、オスの体内のアミノ酸が卵の栄養になるから、らしい。
だが、全部のメスのカマキリが全部のオスのカマキリを食べるワケではないらしい。
13〜28%のカマキリだけ、ということだ。
残りの7割は、オスは生き残れる。
人間界に当てはめると、こうだ。
大方の男は、子供のための栄養(金)だけ与えたら良い。あとは関与してくるな。(旦那のATM化の原理?)
残りの何割かは、いつまでも愛の残った夫婦関係でいられる。
(1〜2才児を持つ母のうち、約30%は「夫を愛している」らしい。すなわち、70%の妻は、夫に対して愛情がすでに失われている)
これは、「夫がいくら子育てに関与しても」揺るがない事実なのでは?
夫の生活態度が変わらない。
これは悪い意味でもあるし、一方でいい意味も含んでいるとシワは感じている。
夫の方が、「変わらずいつまでも妻を愛している」のだ。
1〜2才児を持つ母のうち「夫を愛している」と答えたのが30%だったのに対して、「妻を愛している」と答えた父は、50%だったのだ。
シワ自身も、誕生日、結婚記念日、クリスマス、等の記念日を祝うのを欠かしたことはない。
妻はというと、バレンタインやクリスマスは、彼女の中ですでに消滅されている。
「育児に参加してくれない」
「旦那が変わってくれない」
そんな不満は、もはや旦那に対する不満をただ言いたいだけのものなのでは?
旦那を攻撃の対象にしたいだけなのでは?
と育児にフルに介入したシワが立てた仮説である。
(その具体的エピソードは、また改めて書きたいと思います。長々とすみませんw)
・・・
「シワくん、また今度落ち着いたら飲みに行こうね!」
と、国見さんは会社を後にした。その足取りはどことなく重い。
あの屈託のない笑顔をふりまく国見先輩が、誰かと口論するなんて、本当に想像ができない。
20時、シワは会社に一人になり、改めて会社PCと向き合い、自分の手帳を取り出した。
今月のスケジュールを確認する。
「○月○日、土曜日。妻、熊本に戻る(仮)」
と記載してある。
妻に、LINE電話をかける。
「…もしもし?」
子育てに奮闘した直後なのか、妻が少しくたびれた様子で電話に出る。
「あ夜遅くにごめんね。あのさ、熊本に戻ってくるタイミングの件で電話したんだけど今大丈夫かな…?」
あの激昂された一件から、シワは自然と言葉を選びながら話すようになっていた。
「…何?」
どことなく構えたような反応だった。
「7月下旬ころに帰ってくるって言ってたよね?それをさ、例えばなんだけど、秋ころ、具体的に言うと、11月とかにするってのは…どうかな?」
それを言うiPhoneを持つシワの手は、すでにジンワリとした汗をかいていた。
「…は?」
妻の、冷えた一言が応えってきた。
「いや…理由を言うとね。あの、オレが有給とってマコちゃんの実家に帰ったときに、体調悪いのにも関わらず子育てを任せっきりにして、マコちゃんを怒らせたときがあったよね?」
「…」
妻のマコトは、黙っていた。
「それから、オレに対してはどことなくピリピリしているのを感じたんだ。でも、マコちゃんがご両親と接してるのを見ると、いつもニコニコ笑っていた。ご両親のもとでしばらく子育てをしたほうが、ストレスが無いんじゃないか、と思ったんだ」
シワ坊主は、続けた。
「出産直後で、カラダもまだ完調じゃないでしょ?カラダを休めつつ、マコちゃんのお母さんにサポートしていただきながら、カラダが回復したくらいに熊本…」
「あのさ」
妻が、シワの話を遮りカットインしてきた。
「え?」
「子育て一緒にやろうって、言ってくれたよね?」
妻の鋭利なトーンが、シワの心に突き刺さる。
「子育て、したくないからそんなこと言ってるの?」
妻は言ってきた。
なるほど、妻はそう捉えてしまったのか。
子育てをしたくなく、少しでも一人の時間が欲しいからこそ、旦那は妻の帰りを引き伸ばしている…妻はそう解釈したようだった。
「えーとね、結論から言うとそれは間違っている」
今思うと、そういうシワの返し方が、妻を否定するという行為になり、より反感を買ってしまったのではと考えている。
「一度体調悪くなってるよね?おそらく、出産直後で免疫機能も低下してると思うんだ。だからこれからも体調を崩しやすい状態が続くと思う。そういう時に、マコちゃんのお母さんにサポートしてもらうことで、心身ともに落ち着くんじゃないかなと思っている。その間、オレも準備しておくから」
「…準備って何?」
再び、妻が応える。まるで落下する氷柱のような声だった。
「準備って結局子育てのネットサーフィンするだけでしょ?それってなんの役に立つの?実際の子育てとは違う、一般論なんだよ?実践しなきゃ意味ないでしょ?」
妻の言葉は、なんら間違ってはいない。
「もちろんそうだよ。だからこそ、オレも早く実践したいと思っている。そのためには、ある程度マコちゃんが落ち着いた状態で熊本にきてくれることがそれにつながるんじゃないかと思っている」
シワは、少し口調を強めた。
妻は、応えた。
「子育てから逃げないで‼︎‼︎‼︎」
シワのカラダが硬直した。
妻は、こんな語気を強める人間だったっけ?
…
入籍前。
シワとマコトは、兵庫へ旅行に出かけていた。
有馬温泉入りたいね、という話をしていたからだ。
古びた温泉旅館に一泊し、温泉好きなマコトは
「朝も入る!」
と胸を踊らせていた。
朝、シワは8時に目を覚ました。
すぐ隣には、マコトの穏やかな寝顔を確認した。シワが一番好きな朝のシーンである。
「マコト、温泉、9時までだって」
シワはマコトを軽く揺すった。
マコトはもぞもぞと動き出す。
「う〜ん」
「温泉、入らなくて良いの?」
シワは尋ねる。
「ねむ〜い。シワちゃん先温泉行ってて。あとでいく〜」
先に温泉に向かい、部屋に戻る。
マコトは静かな寝息を再びついていた。
「マコト、温泉終わっちゃったよ」
シワは言う。
「…うーん、なーぜー」
マコトは寝ぼけながら、寝返りを打った。
しょうがないな…と思いながら、その仕草がかわいいと感じたシワであった。
…
誰かが言っていた。
「子ども生んだら、奥さん変わるよ」
本当にその通りだと思った。
あのころの妻は、一体どこに言ったのだろう。
今電話越しで話している妻は、本当にあのマコトなのだろうか?
マコトには、全く性格の違う双子の姉妹がいたのではないか?
そう思えるほどだった。
マコトとの電話を切り、デスクを立ち上がる。
事務所の喫煙所に向かう。分煙の時代であり、事務所が入っている喫煙所も、少し歩いた距離にあった。
この当時は、禁煙を目指していて、でもすぐにはやめられなくて
ようやく、アルコールを摂取した時以外の断煙までできるようになった頃だった。
だが、この時は無償に吸いたくなった。
マルボロのブラックメンソール1ミリを一本取り出し、事務所の隣のセブンイレブンで購入した100円ライターで火をつける。
顔を上に向け、ゆっくりと息を吐き、くゆる紫煙を眺めていた。
続く