記者時代から、「静岡新聞にはふさわしくない」などと先輩からおしかりを受けていました。いまは、現場にいませんし、記者の立場でもありません。きょう私の話すことは静岡新聞社の主張ではなく、あくまで個人の主張ですのでご了解ください。

 東日本大震災から1年たった3月11日、東京の会社のツアーに参加して被災地に行ってきました。記者でなくなって取材報道ができないのに現地にいっても、と思って行かずにいたのですが、自分の目で見て、生の声を聴いてみたいと思ってツアーに参加しました。蓮池さんの兄、蓮池透さん、東京外大の岩崎さん、かつてのべ平連の小中陽太郎さんも同行する80人くらいのツアー。ほとんどは60歳以上。常磐道は一部通行止めなので、東北自動車道で福島県に中通りから入り、あぶくま山地を越えて、飯館村、相馬へ向かいました。あぶくまを超えるときには雪が降っていたが、きれいな清流、せせらぎの音を聞きながら、小中氏も「美しいなあ」としかし、「でも、この雪も放射能で汚染されているんですね」と。白い雪がネガのように白黒反転して、黒く染まって見えるように気がしました。これが本当の景色なのだろうか、映画で見た「核の冬」の死の灰の世界と重なって見える気がしましたあぶくまは豊かな自然に恵まれ、昔、飢饉のときには山にはいって山菜をとったところ。しかし除染は不可能で、人と山との結びつきが無残に断ち切られてしまいました。

飯館村は福島現場から30~40キロ圏内にあり、福島原発2号機から放射能が漏れ、風で飛ばされて雨に混ざって降り注いだ地域。年20μ㏜を計測して計画的避難地域に指定されたところ。セシウム、ヨウ素だけでなく、プルトニウムが検出され、人影はほとんどありませんでした。

相馬市、南相馬市、双葉郡を合わせて相双地区と呼んでいますが、ここも1000人以上が犠牲になり、警戒区域に指定されています。この原町区で小児科医の九条の会の会長が、どうなってしまうか不安だ、と目に涙をためて語っていました。子を持つ母親も避難してほとんど地元にはかってこないし、看護師も出て行ってしまった。子どもの姿が消え果て、小児科も休診状態だという。地元の女性も「子どもを産む気はない。」というし、「政府の約束を信じる人はいない。」と語っていました。

福島原発の保守管理にかかわっていた蓮池透さんは、「OBのひとりとして、申し訳ない。こんな過酷事故を起こしておきながら、平然と値上げしようとし、再稼働しようとするなど、お客様意識も当事者意識もない。あれは原発関連の奴らが起こしたことだと平気で言う。」と怒っていました。「核のゴミ、使用済み核燃料の行き場がない、トイレのないマンションは段階的にフェードアウトするしかない。自滅するしかない」とも語っていました。

静岡新聞の記事にも、青森の再処理工場の使用済み燃料がいっぱいだという記事が出ています。たとえそれらを原発に戻しても、置き場所がない。浜岡もいっぱいです。

我々は、磯部漁港(ここも津波に襲われ家屋などが流出し、今でも土台のみになってしまいましたが)から南下し、見渡す限りの泥田のようなぬかるみの中、原町に向かいました。磯部地区も、9メートルの津波がおそい、250人が犠牲になったところです。遺体が田畑から発見されたそうです。私たちはただ立ちすくみ、黙とうするしかありませんでした。いまだにまったく傷はいえていません。