自分や人との対話で、自分の知識や意識や言動などを吟味すると、自分が以下に卑しい存在かを認識してしまう。
何度も何度も改めて何度も何度も変わるけど、その都度、違う見地から否定と訂正が行われる。
結局、変わっていないのか、戻っているのか、それとも見地の違いだけなのか?
どの見地の言葉もその見地においては正しく訴えられていて、すべてが正しく聞こえてしまう。
これは、きっと自分が正しくないからだと、自分に対して結論付ける。
そしてまた巡る。
聞きかじる事できっかけとし、本を読んで知識に触れ、体験・体感して知識を深める。
だけど、その聞きかじりも本も体感・体感も、総ては自分の感受性如何であり、正しい知識ではなく、善の知識ではない。
あるいは、そうかもしれないが、そうであったとしても結果としてであり、何故なのかの理由すら自己の認識ではないと最近は強くおもう。
正しく生きようと思っていても、結局ドクサにまみれて生きていく。
毒されて行く。
しかし、思ったように生きるしか、道はない。
