あっ!


昨今の日本において「死にたい」という気持ちはある種のブームのように感じていて、あまりにも「死」が身近に感じるし、魅力的に映すから人々は一回こっきりしか経験できない「死」を神格化しているかのように肯定する。


その日私は、この行き場のない悩みを話した。

「ちょっと変なことを言ってよいか」と。

そう、ずっとわたしの中に渦巻いているあの感覚、そんなものを誰かに吐き出してしまいたかった。理解を求めていたか、と言われたら必ずしもそうではないような気がする。理解ではなく、認知してほしいという我儘だと思う。

「そういうことも、あるんだ」という風に。



「死にたくないんだ。」



そう言うと彼は困ったような、呆れたような笑みを浮かべて「どういうことですか」と私に尋ねた。



タナトフォビアの説明から始めた。

世の中に渦巻く希死念慮の話は驚くほどに他の人々は「理解」するのに対し、死を恐れるこの気持ちは誰しもが「認知」していないことに気がついた。



死にたくない、死にたくない、死にたくない、

無になるよって誰かが言った。だから怖くないよと。だけど怖いということすら無になったら考えもしない、ということが恐ろしい。

私が私でなくなることが怖い。

認識できている私が存在しなくなることが怖い。

自殺なんてもってのほか。

私は何であれ死にたくない。永遠でもいい、生きていたい。怖い。無くなってしまうということすら認識できなくなる無が怖い。



そんな話をしても

「死にたい」とは思ったことがあるが、「死にたくない」は周りにもいない。と、困らせてしまっただけだった。




死にたい、が、オーソドックスな世界なんておかしいよ、おかしい。だって誰しもが死んだことなんてないのに。なぜそこに甘美なものを感じられるのか?

生きているより苦痛なことはない、と、

一体誰かそう言ったのか。仮定したのか。

死んでしまったあとの方が苦痛ではない可能性を誰が証明したのか。証明できないことに、なぜ誰しもが、そして若者が、憧れてしまうのか。


死を、甘美なるものにした「戦犯」は一体誰なのか。



死んだあとなんて誰も経験していないのに、なぜ、なぜ人は死ねば楽になると思っているのか。





私は今に満足しているから死にたくないのだろう。

この世界よりよい世界などないと決めつけているから死にたくないのだろう。

大切な人がこの世に多すぎるから死にたくないのだろう。死が怖いのだろう。


誰か、誰でもいい、この気持ちを共有できる人はいないのだろうか。

何年も何年も探している。


死にたくない人はいないのですか。



私は、死にたくない。

死にたくないんだ。

そしてあなたにも、死んでほしくない。

なぜならば、死んだ後が幸せだという保証がないからだ。

だったならば生きて「知っているようになっている今日」をどうか知ろうとしてほしいからだ。

どうか生きて知ってほしい。

生きることは痛いが、死んだ後が痛くない保証がないことを。


誰かに吐き出してしまいたい。


わたしは、死にたくない。