
「罪は存在しない」
この、なんとも深い深い、安心と安らぎを感じる
聖霊の声を聞きたいのに、聞こえない、、
「わからない」>д< 、、と思っているとき、
何かが、
「お黙りなさい…!」
と、厳格に きっぱりと、
落ちつきと、優しい強さの響きをもって
教えてくれているのを感じました。
聖霊に間違いないですね、、。
そして、しばらくすると
誰も、わたしも、何にも、どこにも、罪はありえない。
絶対に
本当に。。
それが、聖霊がいつも教えてくれる"真理"でした。
"真理"というのは、
知識の積み重ねや、植え込み、思い込み、記憶などではありません。
洞察、理由もなく間違いなく知っている感覚、
体得、体験するもの。
それは正に、元々自分の中にあった "光" を思い出す、
という感覚。
言葉では表現しきれない、
コースで、心眼(ヴィジョン)、智識 、と言っているもの。
それを得ようとするとき、
「わからない」や「分かるわけがない」という
“実はそれが解ってしまうことを怖れている自我”の働きが
出てきて誤魔化し、隠れ、
もっともらしい言い訳をはじめる。
「分からない」というのは、
「本当の自分(真理、光)を見たくない」ということ。
だから見なくていい理由を探す迷宮へ逃げ込む。
できるだけ遠くに。
あらゆる言い訳が可能な外側を作り出していく旅へでようとする、どこにも見つからない自分を探して、、。
それでも、
聖霊が呼び止めてくれる方に耳を傾けるなら、
まず、「お黙りなさい」
「そして自分(自我)を御覧なさい」
聖霊と共に見ていくなら、裁かず咎めることなく、
罪悪感の虜になることなく、
本当に静かに、冷静に、落ちついて、深く
優しいまなざしで(労るように)見ていけます。。
¶¶ 幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。
見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。
幻想が危険なはずはないのだから、幻想からしり込みする必要はない。(奇跡講座第十一章、Ⅴ1より)¶¶
自分の中で何をしていたのか、
罪は存在しない、ということを知らなくていい為に
作り出していた事、、
自分も人も、状況も、
責めて(攻撃して)、けなして、見下したり
羨ましがったり、美化したり(自分を卑下したり)、
間違っていないか心配して、不安がって、怖がっていて
その為の予防や、改善、防護として、安心したくて
常に常に、四六時中、
何かを得よう、保とうと焦り、
奔走して、むやみやたらに(あてもなく)
右往左往、忙しなく言い訳したり、説得したり、
動き回り、逃げ回っていた状態だったということが、、
本当に、面白いくらいにそうだったと
自然に見えてくる。。
それは自分で自分を弱めていた。
自分で自分の光を遠ざけておくために、
自分で投影した自分(他の人や状況)に、自分を苦しめるようにお願いしている。。
しかも、、
なんと、このすべてが架空の空想なのだ!!
そおゆう、お話を自分で作って、自分で見ていただけ、
だった~っっ!! 笑笑笑
そして、そのことも、ぜーんぶ、何も悪くなく、
罪も何もない。。
どこまでも、どこまでも、
なにも、誰も、わたしも、
間違っていないない。
これまでも、
今も、
これから先何がどうなっても、、!
でも、あれが、、こうだし、、
でも、不安だし、怖いし、怒りがあるし、、斯々然々
と繰り返し、ぶり返してくるけれど、
何度でも、
あの、厳格にきっぱり優しい強さの
『 お黙りなさい…! 』
『 静まりなさい 』
『 自分を御覧なさい 』
を感じる、
落ちつきが内にひろがっていき、
今、出てきている。
沸き起こってきているものを、静かにみている。
そのまま。。
出てくるもの、感情、考え、出てくることは
何も間違っていないし、悪くもないし、良くもない。
ただ、出てくる。
それを止める必要もない。
それは私に何もしていない、何の影響もない。
咎めるとこも裁くことも、必要ない。
罪は存在していない。
だれも、何も、悪くも、良くもないのだから。
正解も間違いもない。
真理の光である本当の自分を知らずにいられるように、
自分で作り出した罪悪感でできた夢のお話たち、、笑
全部、同じく、何もかも、例外なく!😊
常に、いつも、
自分やすべてを判断しようとする(ダメ出しし続けている、裁き、咎めている)自分に、
お黙りなさい。
という聖霊の声を招いていたい。
もう、何もかも大丈夫だと、
すべてである私、わたしであるすべてを
深く深く安心させてあげたい… (⌒‐⌒)人◯
¶ ¶あなたから何かを奪うことができるのは、
あなた自身だけである。¶¶
( 奇跡講座、第十一章Ⅳ、4)
それをいつも教えてくれる
ひとつの中で
すべてである神の子のあなたに、心から感謝をこめて
人(-.-)