遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では、唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い、『旧唐書』や『新唐書』の記述では「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅亡し唐が建国されたため、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。

 

舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は承和5年(838年)。さらにその後、寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、菅原道真が遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」を提出して中止になり、遣唐使は再開されないまま907年に唐が滅亡すると、そのまま消滅する形となった。

 

遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。山上憶良(歌人)、吉備真備(右大臣)、最澄(天台宗開祖)、空海(真言宗開祖)などが名高い。

 

目的

唐の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏典等の収集が目的とされた。白村江の戦いで日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった。遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は正倉院にも残る。それだけでは需要に不足し、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていたが、遣唐使一行は調達の努力をしていた。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし帰国していったと言う話が残されている。

 

遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は唐の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢を免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国は倭国を冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している。

 

仏教のシルクロード伝播

貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)

太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)

 

なお、日本は以前の遣隋使において「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には自らを天皇とし、唐の皇帝を天子と呼んでいる(『日本書紀』)が、唐の側の記録においては初回の送使高表仁を除き、唐を対等の国家として扱ったらしい記述は存在せず、天皇号は『新唐書』日本伝に「神武が天皇を号とした」と記され、日本の王が国内で用いる称号という認識である。天平7年(735年)に唐の玄宗が帰国する遣唐副使中臣名代に託したとされる天皇宛の勅書(執筆者は張九齢とされる)の宛名は「日本国王主明楽美御徳」となっていることから、日本が唐の皇帝に充てた国書では「国王」を称していたとする説がある。

 

その後、天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本の遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国大陸王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。

 

その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。

 

遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。

 

回数

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。

 

    12回説:藤家禮之助

    20回説:東野治之、王勇

    他に14回、15回、16回、18回説がある。

 

歴史

日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)の隋の滅亡と、続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ死去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の朝命を伝える役目を果たせずに帰国した。争った相手については、難波迎賓館での折衝段階と思われるが、『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王としている。

 

『日本書紀』には、このような記述は存在しないものの、高表仁の難波での歓迎の賓礼以降、帰国までの記事が欠落、すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを示している。これは唐側が日本への冊封を命じようとして、舒明天皇がこれを拒んだと推定されている。

 

その後、この冊封拒否の影響で、23年間日本からの遣使は行われず、唐側も高句麗との対立や、突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる。唐が周囲国と争う中で2代皇帝即位後に納得はしないまま、外交戦略として倭国の方針が受忍され、白雉4年(653年)「不臣の外夷」の立場で、冊封関係のない遣唐使の朝貢が再開された。冊封を受けなかったことは、天皇号の成立や「日本」国号の変更、独自の律令制度制定など、後の歴史に大きくかかわる。

 

再開後、天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、唐と朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。その後の第5次から7次遣使は、両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。

 

天智天皇8年(669年)、7回遣使直後の天智天皇10年(671年)11月2日、対馬国を経由して唐使郭務悰が2000人の軍兵と思われる多人数の使者で突如来航し、まもなく筑紫国に着き駐留し深刻な進攻状態となった。翌年、交渉の末に唐使らに大量の甲冑弓矢の武器や布などの贈物をすることで5月30日帰国させた。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために、再び遣使が行われなくなる。

入滅

弘長2年(1262年)11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

 

荼毘の地は、親鸞の曽孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。

 

頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。

 

入滅後

報恩講

親鸞の祥月命日には、宗祖に対する報恩感謝のため「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。

 

浄土真宗各派本山の成立

この節の加筆が望まれています。 (2014年10月)

大師号追贈

明治9年(1876年)11月28日、明治天皇より「見真大師|」(見眞大師、けんしんだいし)の諡号を追贈された。西本願寺・東本願寺・専修寺の御影堂の親鸞の木像の前にある額の「見真」(見眞)は、この諡号に基づく。

 

浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除した。2008年4月15日には、同派における規範のひとつで、親鸞聖人の流れをくむものとして心に銘ずべき内容を定めた「浄土真宗の教章」(1967年制定)も改正され、大師号が削除された。

 

真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。

 

現代における受容・評価

高校で使われる倫理の教科書では、かつて親鸞が法然の教えを「徹底」または「発展」させたという記述が多かったが、優劣をつけない表現へ修正されつつある。

 

親鸞非実在論

明治29年(1896年)、村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱した。続いて東京帝国大学教授の田中義成と國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表した。

 

しかし、大正10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって、西本願寺の宝物庫から越後に住む親鸞の妻である恵信尼から、京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状(「恵信尼消息」)10通が発見される。その内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明されている。

 

根本経典

親鸞は、「浄土三部経」と総称される『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典とする。

特に『佛説無量寿経』を『大無量寿経』(『大経』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。

 

教義

概要

親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。

 

親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。

 

如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは、名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。

 

教えに対する解釈は真宗大谷派、 浄土真宗本願寺派、本願寺派から分派したとされる浄土真宗親鸞会などで、それぞれ差異がある。

 

以上のような親鸞の教学は、あくまでも自身の生涯の師(本師)である法然の専修念仏の教学を基礎としたもので、親鸞自身は新しい教えや宗派の創設を意図していなかった。しかし、自らも含めた人間の欲望や弱さなどに、ありのまま向き合う中で到達した阿弥陀の本願に関する親鸞の解釈には、阿弥陀からの呼びかけを信じ順う心が発った時点で、念仏さえ要せずに極楽往生が定まる(その後の念仏は、自然(じねん)の報恩である)など他力思想の徹底。その表裏として、修行や善行といった自力で涅槃に至ることができるという自称善人のおごり・はからいを戒め、むしろ、万人が等しく凡夫・悪人として救済されることこそ阿弥陀の本願であるとの世界観・人間観など、独自の特色があり、ここに浄土真宗が独立宗派として成立する思想的基盤があった。

 

また、このような親鸞の思想は、仏陀自身が説いた初期仏教とは様相の異なるもので、他力思想の徹底という意味では、初期仏教の限界を乗り越えようとする営みの連続であった大乗仏教の中でも殊に特徴的であり、仏教というよりも人間の原罪とキリストによる救済という構図を有するキリスト教に近いとの指摘が、かねてからされている。一方で、親鸞の思想を狭い意味での仏教の中だけで理解しようとすることを戒め、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が仏教を通して顕現したものであるとして、積極的に評価する意見もある。

 

一方、日本中世の体制仏教を顕密体制ととらえる歴史学の立場から、親鸞の専修念仏思想は、称名念仏を末代における唯一の仏法ととらえ、当時の階層的宗教秩序を否定するものであったとする見解もある。

 

教義・教学の用語

    称名念仏

    他力本願

    往還二回向 ⇒ 往相回向・還相回向

    悪人正機

    現生正定聚

 

子孫

 

    善鸞 - 毫摂寺第二代/證誠寺第二世。親鸞の帰洛後の東国では、門徒の法義理解の混乱や対立が発生する。それを正すため善鸞と、その実子如信を派遣するも収束できなかった。善鸞は異義異端事件を起し義絶される。続柄については諸説あり、親鸞の長男もしくは二男。

    覚信尼 - 親鸞の墓所である「大谷廟堂」を建立し、初代留守職となる。親鸞の娘。

    覚如 - 本願寺第三代。本願寺の実質的な開祖。親鸞の曽孫。

    存覚 - 常楽寺 (下京区)初代。錦織寺四代。佛光寺七代/興正寺七世の了源の師。親鸞の玄孫。

    蓮如 - 本願寺第八代。本願寺中興の祖。親鸞からみて直系9親等(「雲孫の子」)にあたる。

    顕如 - 本願寺第十一代。戦国時代に顕如を法主とする本願寺は、織田信長と敵対する。(石山合戦・信長包囲網)。親鸞からみて直系13親等にあたる。

    教如 - 東本願寺第十二代。顕如の長男。顕如の示寂にともない本願寺を継承し本願寺第十二代となるも、豊臣秀吉により退隠を命ぜられる。秀吉の歿後、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より京都七条烏丸に寺領が寄進され、本願寺(東本願寺)を分立する。親鸞からみて直系14親等にあたる。

    准如 - 西本願寺第十二代。顕如の三男。顕如の示寂後に秀吉の命により本願寺第十二代となる。

    大谷家 - 明治時代に名字必称となると、浄土真宗本願寺派や真宗大谷派など本願寺教団の法主(門主・門首)、およびその一族が姓を「大谷」とした。本願寺派第25代大谷光淳は親鸞からみて26親等にあたる。真宗大谷派第二十五代門首の大谷暢顯は親鸞からみて25親等にあたり、2014年4月に門首後継者に選定された大谷暢裕も親鸞からみて25親等にあたる。浄土真宗東本願寺派第二十五代門主の大谷光紹は、親鸞からみて直系25親等にあたる。

国家の継承

ロシアは、862年のノヴゴロド建設から国家を継承している。

 

    キエフ大公国 (882–1240年)

    モスクワ大公国 (1263–1547年)

    ロシア・ツァーリ国 (1547–1721年)

    ロシア帝国 (1721–1917年)

    ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国・ソビエト社会主義共和国連邦 (1917–1991年)

    ロシア連邦 (1991–)

 

1998年10月23日、ロシア連邦議会の連邦院は、「ロシア帝国、ロシア共和国、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ソ連、ロシア連邦は、同じ国家であり、国際法でも同じ対象であり、その存在は消滅していない」ことを確認した。

 

国際的な継承の問題は、条約に関する国家の継承に関するウィーン条約(1978年)および国家の財産、公文書及び債務に関する国家承継に関する条約によって規定されている。1991年12月4日のソ連の対外公的債務及び資産に関する継承に関する条約では、継承を次のように定義している。

 

第一条〔中略〕c) 国の継承とは、ある領土の国際関係の責任において、ある国が他の国に置き換わることをいう。

この定義は、1978年ウィーン条約第2条に最初に定められたものである。1983年ウィーン条約第2条にも含まれている。

 

ロシア連邦は継承国であり、ソ連は前身国である。ソ連は、1917年11月7日まで存在していたロシア臨時政府の継承国である。そして最後に、ロシア臨時政府はロシア帝国の継承国となっている。このように、形式的・法的な意味では、ロシア連邦はロシア帝国(ロシア国家)の継承国である。しかし、ロシア連邦は、直接ではなく間接的に、上記のような一連の流れを踏襲して、ロシア帝国の後継国となっている。同時に、上記のどの段階においても、前身国からの継承が完全に認められていないことが明らかである。

 

ロシア連邦はソ連の後継者であり、ソ連が認めたロシア帝国とロシア臨時政府の国際的な義務のうち、ロシアが自主的に引き受けることに同意したものの範囲内での継承国である。

 

古代

現在のロシア連邦のヨーロッパ部分の西部と、ウクライナの北部、そしてベラルーシにあたる地域には、ゲルマン人の東方への移動後、東スラヴ人と呼ばれるスラヴ人の一派が居住するようになっていた。スラヴ語を話し、森林地帯での素朴な農耕生活を送っていた彼らの西にはバルト諸語を話す人々、東や北にはフィン・ウゴル諸語を話す人々が彼らと同じような生活を送っており、南の黒海北岸のステップは様々な言語を話す遊牧民の天地であった。やがて、この地域の遊牧民の多くは言語的にテュルク系に同化し、突厥の大帝国が崩壊した後はヴォルガ川の下流でハザール可汗国を形成した。

 

やがて、西ヨーロッパでフランク王国などのゲルマン人の王国が形成された頃、北西のスカンディナヴィア半島でノルマン人(ヴァイキング)たちが活動を活発化させ始めた。海賊・侵略行為のみならずバルト海・北海での交易に携わったノルマン人は、その航海技術を生かしドニエプル川をつたって黒海に出て、はるか南の東地中海地域で経済的に繁栄する東ローマ帝国との交易にも乗り出した。

 

また、ハザールを経由したイスラム帝国の交易も盛んに行われていたために、これらの二つの交易ルートを通して東スラヴ人たちは、ノルマン人とハザール人の影響を受けて国家の形成に向かい始めた(ヴァリャーギからギリシアへの道)。一方で、ノヴゴロド方面へ進出したノルマン人たちは、ヴォルガ川を下り、カスピ海方面にも達している。

 

彼らは、ルーシ以前のロシアを「ガルダリケ」(古ノルド語: Garðaríki)と呼んだ。スラブから、ノルマン人は多くの習慣、造船の方法、幾つかの航海の表現を採用した。Garðという言葉も、スラブ語に由来している。現代ロシア語には、デンマーク語とスウェーデン語からの借用も含まれている。

 

中世

後の時代のルーシ人が残した年代記によると、862年にノルマン人のリューリクが交易都市ノヴゴロドの公(クニャージ)となり、リューリクの一族が東スラヴの居住地域に支配を広げていく過程で、東スラヴ人の間で幾つかの国家が形成され始めた。これらの国々があったこの地域は、リューリクの属する部族ルスの名前に因んでルーシと呼ばれるようになるが、このルーシという地域名が、のちに「ロシア」という国名と結びつけられるようになる。

 

しかし「ロシア」という言葉は、中世時代のギリシア人がルーシに対して使った言葉であって、ルーシ人自身は自分たちの国を「ルーシ」と呼んでいた。やはり年代記の伝えるところによると、882年にリューリクの子イーゴリは一族オレーグの助けによりドニエプル川中流の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定めたという。

 

史実としての真偽はともかくとして、バルト海に近いノヴゴロドからキエフを経て黒海に出る道が同じ一族に属する支配者の手によって統合された。オレーグとイーゴリは周辺の諸部族の間に勢力を広げ、イーゴリを始祖とする歴代のキエフ公のもとにルーシへと国家権力を形成していった。この一族はノルマン系であるとされているが、10世紀までには、スラヴ系へと急速に同化していったと言われている。

 

10世紀末には、キエフ公のウラジーミル大公が東ローマ帝国からキリスト教を受容して、ルーシは国をあげて正教会の信徒となり(cf. キエフ・ルーシのキリスト教化)、スラヴ語を書き表すための文字としてキリル文字がもたらされるなど、正教世界の進んだ文化がルーシへと取り入れられていった。

 

また、ウラジーミルは依然として様々な勢力が入り乱れていたルーシをキエフ大公国の下にほぼ統一することに成功するが、同時に息子たちの間に支配下の都市を分封して公に立てたために、これ以降、ルーシは本家筋であるキエフ大公国を盟主としつつも、リューリク・イーゴリ兄弟を始祖とするリューリク家の成員を公とする数多くの小国家へと再び分割され、12世紀頃にはキエフ公国の衰退に伴ってウラジーミル大公国を中心とする北東ルーシ諸公国、北西ルーシで貴族共和制を実現したノヴゴロド公国、ルーシ西部を支配し、ルーシの都キエフを支配し続けたハールィチ・ヴォルィーニ公国などの、幾つかの地域ごとの政治的なまとまりへと分裂していった。

東国布教

建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。

 

寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる[要出典]。

 

そして笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる[要出典]。

 

親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。

 

西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとし、文永9年(1272年)にこの地で没したとしている。

 

この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。また、東国布教中に蓮位坊(下間氏の祖)も親鸞の弟子となり、その後もそば近くに仕えた。

 

帰京

62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。

 

帰京の理由

確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。

 

    天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する弾圧はつづいているため、帰京の理由としては不適当という反論がある。

 

    主著『教行信証』と、「経典」・「論釈」との校合のため。鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。

 

    東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。現代と比較して、機械的伝達手段が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。

 

    望郷の念によるもの。35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。

 

    著作活動に専念するため。

当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。

 

妻・恵信尼の動向

確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。

 

    東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝)。京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。

 

    京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。

 

承久の乱

承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる

寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。

 

    宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。

    建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。

    建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。

    建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。

 

    建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。

 

    建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)を撰述する。

 

    建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。

 

    康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。

    康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。

    正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。

 

南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。

この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。

ロシアの歴史は、1000年以上あり、6世紀-7世紀の東ヨーロッパ(ロシア)平野における東スラブ人の再定住から始まる。東スラブ人は後にロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に分かれた。ロシアの歴史は、大きく7つの時代に分けることができる。

 

キエフ大公国(キエフ・ルーシ)(9世紀 - 12世紀)、タタールのくびき(13世紀 - 15世紀)、モスクワ大公国(1340年 - 1547年)、ロシア・ツァーリ国(1547年 - 1721年)、ロシア帝国(1721年 - 1917年)、ソビエト連邦(ロシア共和国)(1917年 - 1991年)、ロシア連邦(1991年以降)である。

 

概要

伝統的にロシアの歴史の始まりは、ヴァリャーグの一人、リューリクが862年にラドガを支配し、ノヴゴロドを建設したところからだと考えられている。882年には、ノヴゴロド公オレグがキエフを征服し、一つの権力の下で東スラヴの北部と南部の土地を統一し、キエフ大公国の基礎を築いた。

 

988年には、ウラジーミル1世がビザンティン教会(東方正教会)からキリスト教を受け入れ、東ローマ帝国のビザンティン文化とスラヴ文化の統合を開始した。しかしキエフ大公国は、1237年から1240年にあったモンゴルのルーシ侵攻の結果、崩壊した。

 

モンゴルから開放後の14世紀、支配下に置かれなかったノヴゴロド公国とウラジーミル・スーズダリ大公国は、リトアニア大公国の一部となった。イヴァン3世の時代にはロシアによる単一国家が形成され、16世紀初頭にはモスクワ大公国を中心に北部と東部の諸侯国を統一し、ロシア・ツァーリ国が建国される。最初の君主はイヴァン4世だった。イヴァン4世による統治の始まりは、最初のロシア議会(ゼムスキー・ソボル)の設立によって示された。

 

その後、国家は大きく領土を拡大し、汗国のジョチ・ウルスを併合した。そしてロシア・リトアニア戦争(ロシア語版)に敗れたリトアニア大公国は国家の独立を失い、南ロシアの土地をポーランドに譲渡した。後に、フョードル1世の死とリヴォニア戦争の敗北、それにオプリーチニナの失敗の結果、ノヴゴロド公国から存在したリューリク朝は終焉を迎え、動乱時代を経て新たにロマノフ朝が台頭し、ロシア帝国が成立した。これと同時に農奴制が始まった。

 

18世紀から19世紀にかけて、国家は絶えず拡大を続けバルト三国、黒海北部地域、コーカサス地域、フィンランド、中央アジアをポーランド分割の間で獲得し、ザカルパッチャを除くロシアの旧領地の全てを支配した。19世紀初頭、ロシアはナポレオンを撃破(1812年ロシア戦役)し、数十年にわたって「ヨーロッパの中央国家」となった。1825年に君主制を制限して、農奴制を廃止しようとしたデカブリストの乱は鎮圧された。その後も幾つかの革命が起きたが、成功には至らなかった。1861年には奴隷制は廃止されたが、1905年から1907年の革命までは、土地の償還金という形で農民の封建的な依存の形態が実際に温存されていたため、市民の間でかなりの不満が生じた。

 

奴隷制廃止後に可能となった農民の都市への流入は、19世紀末の産業革命に繋がるとともに革命運動が大きく発展し、帝政ロシアを打倒するための革命集団が出現した。20世紀初頭には、政治的、社会的、経済的に危機的状況に陥り、日露戦争にも敗れた。1905年のロシア第一革命の影響で、権力は議会を再設置し、基本的な権利と自由、私有地の所有権を認めるようになった。第一次世界大戦へのロシアの参戦は国内の問題を悪化させ、最終的には1917年の2月革命と10月革命とロシア内戦の勃発に繋がった。

 

レーニン率いるボリシェヴィキは社会主義国家建設の道を歩み、内戦とシベリア出兵の勝利を経て、バルト三国、ポーランド、フィンランドの独立を認め、旧ロシア帝国の領土の大部分にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の権力を確立した。1922年には、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。1920年代にスターリンが政権を握ると、工業化、集団化、そして大粛清の時代が始まった。ソ連は工業生産のレベルで世界第2位となった。

 

スターリンの統治時代に第二次世界大戦が勃発し、「大祖国戦争」が起きた。ナチス・ドイツと枢軸国を撃破し、4年間の戦闘で約2700万人が犠牲となった。ソ連はナチス・ドイツの敗北に決定的に貢献し、東欧・中欧諸国を「解放」してバルト三国を併合した。終戦後、ソ連は超大国の1つとなり、アメリカとの冷戦に突入し、北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構(WTO、WPO)が対立した。

 

20世紀半ば、ソ連は経済力、軍事力、科学力を積極的に高めて、1961年には世界初の有人宇宙飛行を成し遂げた。1980年代になると、国は経済・政治運営の「停滞期」に陥る。これを打開しようとしてゴルバチョフはペレストロイカを実行したが、この改革の試みは結果的にソビエト連邦共産党の解体とソビエト連邦の崩壊に繋がった。

 

ロシアの近代的な独立国家であるロシア連邦は、1991年12月に建国宣言をした。ロシアはソ連の正当な継承国で、国連安全保障理事会の常任理事国、ソ連の核兵器を保持していた。私有財産が認められ、市場経済のための進路が取られたが、1990年代後半の経済危機でデフォルトに陥った。2000年以降、プーチンの下でロシアの外交政策が強化され始め、数々の社会・経済改革が行われたことで、経済が大幅に成長し、国内の縦割り権力が強化された。2014年、ウクライナでの市民対立の激化と政権交代を経て、クリミア半島がロシア連邦に併合されたことで、多くのEU諸国や米国が鋭く否定的な反応を示し、ロシアに対して経済制裁を科した。

 

ロシア史として記述される歴史は、ロシアという国家の単線的な歴史であると同時に、歴史上ロシアに内包されたり、関わりをもったりしてきた様々な人々が出入りする複雑な歴史でもある。

 

名前の由来

ロシア(ギリシャ語:Ρωσία)という名前は、東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス7世が「儀式について」と「帝国の管理について」で名前の原型であるルーシという名前を10世紀に付けた。キリル文字での記録で「ロシア (Росия)」という言葉が最初に使われたのは、1387年4月24日である。その後、15世紀の終わりから16世紀の初めに、頻繁に「Росия」または、「Русия (ルシア)」が使われ、ロシア北東部の自称としての地位を確立した。最終的にピョートル1世によって「Росия」に「с」を付け加えた現在の「Россия」という形が確立した。

 

ロシアは、1917年3月8日に起きた2月革命の結果、同年3月16日にロシア臨時政府が設立されその後、十月革命によりロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 (RSFSR)が成立した。1922年12月30日、RSFSRは他のソビエト共和国と共にソビエト社会主義共和国連邦を設立し、非公式に「ロシア」と呼ばれていた。

 

1991年12月25日のソビエト連邦の崩壊後、ソビエト連邦人民代議員大会はRSFSRをロシア連邦(ロシア)に改名する法律を採択した。

改名について

    「善信」実名説:「綽空」から「善信」(ぜんしん)への改名説。「親鸞」の名告りは、それ以降とする説。

覚如の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。

 

    「善信」房号説:宗教学者の真木由香子が『親鸞とパウロ』において主張し、真宗学者の本多弘之らが支持する説。「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『親鸞敎學』95号)。「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。「善信房」の房号は、唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に見て取れる。

 

妻帯

妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。

 

    法然のもとで学ぶ間に、九条兼実の娘である「玉日」と京都で結婚したという説。「玉日」について、歴史学者の松尾剛次、真宗大谷派の佐々木正、浄土宗西山深草派の吉良潤、哲学者の梅原猛は『親鸞聖人御因縁』、伝存覚『親鸞聖人正明伝』、五天良空『親鸞聖人正統伝』の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。

 

対して、日本史学者の平雅行は『親鸞聖人御因縁』、『親鸞聖人正明伝』、『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している。

 

これには、松尾は親鸞についての史料が少ない中で、疑わしい点のある史料であっても批判的検討を行って積極的に用いるべきであるとし、平の方法論は近年の歴史学的成果に逆行するものであると述べている。また、玉日の墓と伝えられる墓所があり、江戸時代後期に改葬がなされていることなど、考古学的知見も玉日実在説の史料になると主張する。

 

    法然のもとで学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族三善為教の娘である「恵信尼」と京都で結婚したという説。「恵信尼」については、大正10年(1921年)に恵信尼の書状(「恵信尼消息」)が西本願寺の宝物庫から発見され、その内容から実在が証明されている。

 

    京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。

 

    玉日と恵信尼は同一人物で、再婚ではないとする説。

 

    法然のもとで学ぶ間に、善鸞の実母と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や、越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く、史料として価値が低いとしている。当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

 

    親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。

 

師弟配流

元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。

 

建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

 

この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。

 

親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。

 

承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。

 

建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて勅免の宣旨が順徳天皇より下る。

 

同月、法然に入洛の許可が下りる。

 

親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。

 

建暦2年(1212年)1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。

 

赦免後の親鸞の動向については二説ある。

 

1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。

 

対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けていて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている。

黄巣の乱(こうそうのらん)は、中国唐末の874年に起きた反乱。

 

乱勃発まで

政治の腐敗と天災が重なり、859年の裘甫の乱・868年の龐勛の乱など反乱が続発していた。これに続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である黄巣の乱である。

 

870年くらいから唐では旱魃・蝗害などの天災が頻発しており、農民の窮迫は深刻なものとなっていた。874年の上奏によると、長安と洛陽の中間地点から東の海に至るまでの広い地域が干害に襲われ、麦の収穫は半分となり、民衆はヨモギやエンジュの葉を食べてしのいでいた。普通の凶作であるならば他のところに移るのだが、地域一帯が全て飢饉なのでどうにもならないという状態であった。しかし官は、これらの窮民を救おうとせずに、その実情を上に報告することを怠った。自分の担当地域で、飢饉による人口減少が起きることが自分の査定に響くからである。

 

さらに乱勃発後の875年には、旱魃が起きた地域に蝗が来襲し、緑の物を食べ尽くした。その被害は首都長安付近まで及んだが、長安周辺を担当する京兆尹が時の皇帝僖宗に出した被害報告が「蝗は穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった。

 

このような状態に対して、874年(あるいは875年)に濮州の元塩賊の王仙芝が滑州で挙兵、これに同じく曹州の塩賊の黄巣が呼応した。

 

この地域は、先に挙げた天災の被害の酷かった地域であり、また龐勛の乱の残党たちが活動していた地域であった。王仙芝・黄巣ともに挙兵のときは数千の規模だったのだが、窮迫農民や群盗などを吸収して、瞬く間に反乱は大規模なものとなった。

 

乱前期

これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した。途中で藩鎮軍などの攻撃を受けることもあったが、根拠地を持たないので手薄な場所へ逃げることで勢力を維持することができた。このように流れては略奪という行動を流寇といい、そのような集団を流賊と呼ぶ。

 

唐政府は、乱に対して王仙芝を禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため、黄巣は強く反対。これを機に、黄巣と王仙芝は別行動を取ることになる。その後の878年、王仙芝は唐軍の前に敗死。その残党を合わせた黄巣軍は江南へと向かうが、両浙・福建を経て879年に広州へと入った。

 

広州は当時の唐の海外交易の中心地であり、この地には大食(タージー)と呼ばれたアラビア商人が多数居留していた。広州入城直前に、黄巣は天平軍節度使の職を次いで嶺南節度使の職を唐政府に対して要求した。天平軍節度使は、黄巣たちの故郷である濮州・曹州・鄆州の三州を管し、嶺南節度使は広州を管する。唐政府はこの要求を拒否し、代わりに東宮(皇太子の宮殿)の警備師団長の役職を与えると言ってきた。

 

この返答に怒った黄巣は、広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った。イスラム側の記録によれば、イスラム教徒・ユダヤ教徒・キリスト教徒(景教)など、合わせて12万人が殺されたという。この時の被害により広州は交易港としての機能を失い、回復するまでに数十年を要した。

 

乱後期

しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ帰ることにした。

 

広州から西江を遡上して桂州に至り、そこから北上して長江を渡るも現地の藩鎮軍に大敗して、再び長江を南に渡って東へと進路を変えた。東へ進む間にも、藩鎮軍の攻撃を受けて度々敗北し、軍内の病人も増えていた。この時期、黄巣は唐への降伏を考えるほどに至ったようである。

 

しかし、苦難の末に880年に官軍の虚を突いて、采石(現在の南京市の少し上流)で長江を渡り、そこから洛陽南の汝州に入った。ここで自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに西へ進軍し、長安の東の守りである潼関を突破し、その5日後には長安を占領した。唐皇帝・僖宗は成都へと避難した。

 

黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した。長安に入城した後の黄巣軍は貧民がいればこれに施しをしたが、官吏や富豪を憎んで略奪を行い、黄巣も統御できないほどであった。一方で唐の三品以上の高官は追放したが、四品以下の官僚はその職に残した。貧民や群盗出身の黄巣軍の兵士たちに、官僚としての仕事が出来るわけはないので、唐の官僚をそのまま採用せざるをえないのであった。

 

その後、黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々、長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていたのである。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、それによりかつてのように攻められれば逃げるという行動が取れなくなり、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。この状況で882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は、黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した。さらに、突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加。

 

883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。もはや維持するのが困難になった長安を黄巣軍は退去し河南へ入るが、ここで李克用の追撃を受けて再び大敗。黄巣軍は壊滅し、黄巣は泰山の狼虎谷にておいに首を打たせて果てた。884年6月のことで、10年に渡った黄巣の乱は終結した。

 

乱後

翌885年に僖宗は成都から長安へと戻るが、各地の藩鎮勢力は唐から自立化して独自の軍閥勢力となっており、唐は長安周辺を保持するだけの一地方政権へと堕落した。この後、朱全忠や李克用ら藩鎮勢力が相争う時代となり、乱終結からおおよそ20年後の907年に朱全忠によって唐は滅びた。

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日)は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。

 

法然を本師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。その中で宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の草稿本が完成した1224年(元仁元年4月15日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

 

生涯

親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物(『御伝鈔』など)によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

 

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

 

時代背景

永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる。

 

保元元年(1156年)7月9日、保元の乱起こる。

 

平治元年(1159年)12月9日、平治の乱起こる。

 

貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。

 

誕生

承安3年(1173年)4月1日(グレゴリオ暦換算 1173年5月21日)に現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進日野有範の長男として誕生する。母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女」(きっこうにょ)とも。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿 (まつまろ)」。兄弟全員が出家しており、母は源義朝の娘で、親鸞は源頼朝の甥にあたるとの研究もある。

 

治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。

 

幼少期、平家全盛の時で、母(貴光女)は源氏の各家の男子は、ことごとく暗殺されることを危惧していた。牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は源経基以降、五摂家(藤原氏)に仕えたが、元を正せば天皇家の血筋でもあった。

 

治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)

 

戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。

 

出家

治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。

 

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、

 

「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

 

と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。

 

出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。天台宗は「法華経」を重視した宗派だったが、そもそも「八幡太郎」の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」はなじまなかったという学説がある。

 

建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。

 

六角夢告

建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、

 

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

 

意訳 - 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」

 

という偈句(「女犯偈」)に続けて、

 

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

 

の告を得る。

 

この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた吉水草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。

 

入門

法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう)の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、次第に法然に高く評価されるようになる

 

『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。また、その年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる。

 

『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ[18]」と記されている。

 

『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに」と記されている。

 

元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる[20]。

 

元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる。

 

元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。

黄巣(こうそう)は、唐末の反乱指導者。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮した。

 

この一連の大乱を黄巣の名をとって、黄巣の乱と呼ぶ。黄巣の乱により全国王朝としての唐は実質的に滅び、以後は各地に割拠する軍閥の中で、長安一帯をかろうじて治める一地方政権に転落する。

 

生涯

黄巣は曹州冤句県(現在の山東省菏沢市牡丹区)の出身。若い頃は騎射を良くし、任侠を好んでいた。一方で学問に励み、何度か進士に挙げられたが科挙には落第して、塩賊(私塩の密売人)となった。

 

乾符元年(874年)、同じく塩賊だった王仙芝が数千の衆をもって挙兵すると、黄巣も数千の衆を率いてこれに参加し、やがて反乱軍の中心人物の一人になっていった。黄巣と王仙芝は特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した。876年、唐から懐柔策として王仙芝だけに官僚のポストが示されたが、これに黄巣が反対したために二人は分裂し、乾符5年(878年)に王仙芝は官軍に敗れて戦死した。

 

その残党を合わせた黄巣軍は江南へと向かうが、両浙・福建を経て879年に広州へと入り、現地のアラビア商人などの外国人商人を多数殺害した。その後、黄巣軍は北へ帰ることを目指し、西の桂州から潭州を経由して長江を渡るも現地の藩鎮軍に大敗して、再び長江を南に渡って東へと進路を変えた。

 

官軍の虚を突いて采石で長江を渡り、そこから洛陽の南の汝州に入った。ここで自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに西へ進軍し、長安の東の守りである潼関を突破し、その5日後には長安を占領した。唐の皇帝僖宗は成都へと避難した。

 

黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した。長安に入城した後の黄巣軍は貧民がいればこれに施しをしたが、官吏や富豪を憎んで略奪を行い、黄巣も統御できないほどであった。一方で唐の三品以上の高官は追放したが、四品以下の官僚はその職に残した。貧民や群盗出身の黄巣軍の兵士たちに官僚としての仕事が出来るわけはないので、唐の官僚をそのまま採用せざるをえないのであった。

 

その後、黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていたのである。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、それによりかつてのように攻められれば逃げるという行動が取れなくなり、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。この状況で882年、黄巣軍の同州防禦使であった朱温(後の朱全忠)は、黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加。

 

883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。もはや維持するのが困難になった長安を黄巣軍は退去し河南へ入るが、ここで李克用の追撃を受けて再び大敗。黄巣軍は壊滅し、泰山付近の狼虎谷で黄巣は外甥の林言の介錯のもと自害して果てた。884年6月のことで、10年に渡った黄巣の乱は終結した。

 

黄巣はいくつか漢詩も残しており、『題菊花(菊花に題す)』・『詠菊(菊を詠ず)』などで反乱への意気込みを謡っている。

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概要

生没:正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日)

 

鎌倉時代の禅僧。主著は『正法眼蔵』など。京都の名門貴族久我家の生まれ。幼少期に両親を失い、親戚から養子として引き取る話も出たが、彼は世を儚み仏門に入る事になる。

 

道元は3歳の時に父をなくし、8歳の時に母を失った。母の死は大きなショックを道元に与え、仏門を志すきっかけとなった。

 

13歳の時に比叡山にいる母方の叔父良顕法眼に会い、14歳で当時の天台座主公円立会いの元で出家した。

しかし天台宗の根本聖典『法華経』の注釈書「法華三大部」を学んでいる時に疑問に突き当たった。

 

彼が悩んだのは

「本来本法性、天然自性身」つまり「全てのものには仏性が備わっており、自然の万物は法(ダルマ)の現れである」

という教えである。

もしそうなら、どうして釈迦や各宗派の祖師たちは凄絶な修行をする必要があったのか?

と疑問に思い、公円を含む色んな師僧たちにぶつけるが満足のいく答えは得られなかった。

 

彼は山を下り、三井寺の公胤僧正を訪ね、彼の勧めで日本における臨済宗の開祖栄西のいる建仁寺の門を叩いた。

建仁時は禅だけでなく天台と真言の教えも併学する寺院であり、道元が抱く疑問を解いてくれるかもしれない、と公胤は考えたのだろう。

 

道元の問いに

「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白狐かえって有ることを知る」

と栄西は答えた。

仏陀は知らないが、畜生(動物)はそれを知る、という不可解な言である。

 

これについては

「悟りそのものである仏陀が、さらに悟る事はできない。狸奴白狐(獣として象徴される五感など全て)は、これから悟りを得ることができる」

といった解釈がある。

 

満足し切れなかった道元は、さらなる探求のため中国に渡り、現地の師僧たちに教えを請って回り、曹洞宗の天童如浄禅師と出会う。

 

如浄は妥協なき仏教者であり、名誉や栄華を離れ、座禅中に居眠りするような人間には

「参禅はすべからく身心脱落なり、みだりに打睡してなにをか為さん」

と自分の履いていた靴で打ち据えるという厳格な人物だった。

 

道元は彼に弟子入りし、印可(弟子の境地を保障する師匠による証明書)を頂く。彼のもとで二年間学んだ後、日本に帰国するが、その際に経典や仏像などは何も持ち帰る事がなかった。彼はその必要を感じていなかったのである。

 

帰国した彼は日本における曹洞宗の祖となり、京都を拠点にその教えを広めて回った。そして帰国から16年後、京都を離れ、北陸の山中に禅の道場「大仏寺」を建立した。これが後に永平寺と改名される事になる、日本曹洞宗の総本山である。