世間の一部で、必死になっている人に対して、滑稽に見える人たちに対して、冷笑することが美徳だとされている風潮がないでしょうか。


 たしかに顔を赤くして、必死になっても上手くいかないドンキホーテみたいな人は、滑稽に思えることがあるかもしれません。
 「あんな滑稽な、無様な姿にはなりたくないよねー」とか、安全な席から奇妙な連帯感を深めている人たちを目にする機会があります。
 




 他人を滑稽だと思える自分の立場こそが美徳だと思っているから、そういう姿勢になるのかもしれませんが、果たしてどうでしょうか。

 その人たちは自分が滑稽な存在になることを必要以上に恐れているのではないでしょうか。だから「あんなふうにはなりたくない」と冷笑するのかもしれません。





 しかし、時には滑稽な存在になることを恐れている人たちのほうが、滑稽に見えることがあるように、僕には思えてなりません。

 たしかに僕も、恥ずかしい立場になるのはあまり好みません。それは年を重ねるごとにそう感じてしまうものなのかもしれません。




 しかし時には、愚直も良い!


人は滑稽な存在になることによって学び、成長するものです。
何度倒れても、滑稽になってもかまわないのです。
「滑稽」を恐れていては、大きな事をできなくなってしまうこともあります。

 自分の顔を真っ赤にした表情を、他人に見られたっていいじゃないですか。
時には「滑稽」になれる人のほうが勇気があってカッコイイし、共感しやすいです。



 「滑稽になってる人たちに対して、冷笑することが美徳」
とされるような文化がもしあるのだとしたら、それは子どもの教育上も良いとは思えません。
子どもこそ、何度も「滑稽」に挑戦して、成長していくべきだと思うからです。
そして思いやりのある大人へと成長してほしいものです。
そのためにはまず、大人が手本を見せても良いのではないでしょうか?
滑稽になっても、何度転んでも許される土台を作っていくのです。
子どもは大人を見習うものだし、社会の風潮を変える責任は大人にあるからです。

 だいたい「必死でかつ滑稽」になっている人を、安全な席から冷笑して満足している子どもたちが並んでいる姿って、イヤじゃないですか?><;
それこそ滑稽に思いますよ。

日本は恥の文化の国だといわれていますが、恥の文化について、どのようなものなのか考えることも大事だと思います。




年越しはランニングしてました。
精神が腐ってきてたから。
320mのトラック×15周で4800mですかね?
久しぶりに走ったので、このくらいの距離で終えました。
最後の一周はダッシュ。
むちゃくちゃしんどかった。

外は見事に人っ子一人すらいなかった。
走ってるとき花火が遠くで鳴っているような音が聞こえました。
どこかで新年を祝っているのかな?
もしくは雷の音だったのかな?
そこらじゅうから鐘の音が聞こえましたし、走ってても年が明けたのが分かりました。

今年は去年にも増して、おそらくめっちゃシンドイ年になるでしょう。
なぜなら実習期間2ヶ月を乗り越えなくてはいけないから。
発作にどう対処しようか正直不安です。
生活リズムは乱れるだろうし、おそらく発作は起こるでしょう。
問題はどう自分を建て直し、保っていけるかです。
発作は必ず朝に起こるので、それをどうクリアし実習先までどう通学するかが問題です。

おそらく挫折はあるでしょう。
しかし、今の自分として願いたいのは、たとえつまずいて挫折しても、這い上がってこれること。
どんな人でもつまずかない人はいないし、勝負の分かれ目はどのように這い上がってこれるかなんでしょう。

「つまずいても即座に這い上がってこれる精神と肉体を手に入れたい」

これが今年の僕の願いです。


こんな僕ですが、今年もよろしくお願い致します。



「勝たなくてもいいさ、ただ負けるな」(リアル13巻より)


人生はケンカだ

ケンカの勝ち負けってなんなのか知ってるか?

負けって自分で認めたら負けなんだよ

勝てなくても、負けないことなら誰もができるんだよ

いいか、絶対に負けんじゃねえ!

人生に負けるな!

がむしゃらに噛みつけ!喰らいつけ!

負けても負けるんじゃねえ!