世間の一部で、必死になっている人に対して、滑稽に見える人たちに対して、冷笑することが美徳だとされている風潮がないでしょうか。
たしかに顔を赤くして、必死になっても上手くいかないドンキホーテみたいな人は、滑稽に思えることがあるかもしれません。
「あんな滑稽な、無様な姿にはなりたくないよねー」とか、安全な席から奇妙な連帯感を深めている人たちを目にする機会があります。
他人を滑稽だと思える自分の立場こそが美徳だと思っているから、そういう姿勢になるのかもしれませんが、果たしてどうでしょうか。
その人たちは自分が滑稽な存在になることを必要以上に恐れているのではないでしょうか。だから「あんなふうにはなりたくない」と冷笑するのかもしれません。
しかし、時には滑稽な存在になることを恐れている人たちのほうが、滑稽に見えることがあるように、僕には思えてなりません。
たしかに僕も、恥ずかしい立場になるのはあまり好みません。それは年を重ねるごとにそう感じてしまうものなのかもしれません。
しかし時には、愚直も良い!
人は滑稽な存在になることによって学び、成長するものです。
何度倒れても、滑稽になってもかまわないのです。
「滑稽」を恐れていては、大きな事をできなくなってしまうこともあります。
自分の顔を真っ赤にした表情を、他人に見られたっていいじゃないですか。
時には「滑稽」になれる人のほうが勇気があってカッコイイし、共感しやすいです。
「滑稽になってる人たちに対して、冷笑することが美徳」
とされるような文化がもしあるのだとしたら、それは子どもの教育上も良いとは思えません。
子どもこそ、何度も「滑稽」に挑戦して、成長していくべきだと思うからです。
そして思いやりのある大人へと成長してほしいものです。
そのためにはまず、大人が手本を見せても良いのではないでしょうか?
滑稽になっても、何度転んでも許される土台を作っていくのです。
子どもは大人を見習うものだし、社会の風潮を変える責任は大人にあるからです。
だいたい「必死でかつ滑稽」になっている人を、安全な席から冷笑して満足している子どもたちが並んでいる姿って、イヤじゃないですか?><;
それこそ滑稽に思いますよ。
日本は恥の文化の国だといわれていますが、恥の文化について、どのようなものなのか考えることも大事だと思います。