如水が築城した水城「中津城」
「福澤諭吉旧宅」の前面道路を西へ。1Kmほど進むと、中津川に架かる「北門橋」へ出ます。橋の袂には「武家屋敷」跡が。秀吉の九州平定の後、黒田官兵衛は「中津16万石」を拝領します。あれほど秀吉の天下取りに貢献した官兵衛が、僅か16万石。秀吉がケチというより、官兵衛の「才知」が警戒されたということでしょう。官兵衛に大封を与えれば、天下を狙ってしまう。この川が「中津川」。天正16年(1588)官兵衛は、中津川の周防灘へ注ぐ河口近くに、城を築くこととしました。日本三水城(中津城、高松城、今治城)のひとつ「中津城」です。三水城のうち、高松城築城は2年後(築城者:生駒親正)、今治城築城は慶長7年(1602)(築城者:藤堂高虎)ですから、中津城が先駆となっています。「九州の関ヶ原」と呼ばれる戦いを、如水は、此の中津城で進めました。関ヶ原の戦いが長びいた場合、如水は、九州を統一し中国を従え、中央へ討って出るつもりでした。しかし「関ヶ原の戦い」は1日で片がつき、黒田長政の功に対し、家康は、筑前52万石を与えます。家康は、官兵衛にも上方に隠居領を与えようとしますが、官兵衛は辞退し、福岡城へ。黒田家の後には、細川家が入城。忠興は小倉城に入り中津城には嫡子の忠利を。寛永9年(1632)細川氏の肥後移封に伴い、小笠原氏が入城。更に、享保2年(1717)に奥平昌成が宮津から移封されました。以後、明治まで、奥平氏が9代にわたり中津城主を継続しました。かつて中津城は、本丸、二の丸、三の丸、8つの門と22の櫓を備えていました。しかし明治の廃城令により、全ての櫓・城門などが取り壊されました。現在の櫓は、昭和39年に再建されたものです。ただ、黒田如水が築いた石垣は、「穴太積み」で造られており、豊臣政権下の新しい築城術が九州に持ち込まれた事例として貴重です。近世のごく初期の城郭遺構、九州で最古の城郭遺構としても貴重でしょう。城郭面積:23,287坪。地形は北から南にかけて「扇形」をなし、中津城は別名「扇城」とも呼ばれます。本丸石垣、内濠は築城当時のままで、水門より海水が入り、潮の干満で濠の水位が増減する構造になっています。享保13年(1728)に当時の城主:奥平昌成は、水位を計測する「測水標」を設置。わが国最初の「量水標」とされています。城内に、「黒田官兵衛資料館」もあります。 (青竹:NO.3876)