高校中退者が塾長になった話。

高校中退者が塾長になった話。

都内の私立高校を半年で中退し、その後10年のブランクを経て、高校卒業程度認定試験を取得。大学に進学。紆余曲折あり、塾長になった話。

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本編の続き。


3週間の短期留学を経て、

私は伝わる英語の楽しさを知った。


英検3級に受かり、私は次のステップに

進もうとしていた。


多忙な大学生活に慣れてきた頃、

私は2年生になった。


さて、次のステップに進もうか。


求人を見て、学習塾へ電話した。


一件目、名が知れた大手学習塾の面接は落ちた。


生の教育現場を知りたいのに。


そう思い、今度は、

自宅から大学に行くまでの乗り換え駅にある

わりと大手の学習塾に電話し、面接を受けた。


もちろん、学歴を隠す必要はない。


私は高校中退であること、

偏差値が低い大学に通っていること

包み隠さず話した。


面接官は言った。

「あの、偏見ではないのですが…」


来た。やっぱり学歴か。

そう思ったが、面接官から言われたのは、

意外な一言だった。


「髪色をもう少し暗くしてもらうことは

できますか…??」


なんだ、そんなことか。

髪色なんていくらでも暗くできる。


この学歴で学習塾へ面接に来てるんだ。

落とされても不思議じゃない。


それと、もうひとつ懸念点があった。

私は2回目の短期留学を控えていた。


髪色を暗くすることを約束すると、

留学してから帰国後に

本格的に働くことになった。


実際に働くのは、

面接地の一駅隣にある校舎だった。


集団と個別がある学習塾であり、

塾関係者であれば、

ほとんどの人が知っているであろう塾だった。


数日間の研修を受け、私は再び留学した。


2年生になる春休みのことだった。


留学先は、前回と同じ地域を希望した。

私は、1回目の留学参加者から

希望者が選抜で大学からお金を出してもらって

再び留学ができる制度を使って、

6週間の短期留学へ行った。


英文レポートと英語の面接、

TOEICのスコアの提出をして、選抜された。

TOEICは留学前後に受けることが条件であった。


留学先には、半年ぶりに行ったが、

不思議な感覚があった。


外国なのに土地勘があり、知人がいる。

以前のホストマザーは、

別の大学の日本人留学生を既に受け入れており、

(ホストファミリーをするのが

趣味のような人たちは結構いるらしい。)

私は新たなステイ先へ行った。

1回目の留学の時に

お世話になったガイドさんたちや、

(日本人だが、結婚相手が向こうの人で

移住してる人が数人ガイドをやっていた。)

向こうの大学で授業をしてくれていた先生と

事前に連絡を取り合い、

再会を楽しみにしていた。


一緒に留学したのは、5人ほどだった。

今回は先生の引率はない。

選抜されたメンバーだけで、

様々なやりとりをして

助け合わなければならなかった。


向こうに着いて数日は

私たちの大学と関西のとある大学の人たちが

同じクラスで授業を受けた。


私は英語を勉強していったつもりだったが、

それでもやはり上には上がいた。

関西の大学から来たとある男子に

英語が出来ないことを

バカにされた。


私は自分に英語力がないことは

わかっていたつもりだった。

高卒認定の受験期に最も苦しんだ英語、

少しずつ出来るようになっていたとはいえ、

コンプレックスは少しあった。


これは私の偏見だが、

英語ができる人たちというのは、

英語力でカーストを決めつけるという節がある。

英語力=人間的な価値、と思っている人たちは

世の中にいる。

そういう類の人たちだった。


私は英語が出来ないこと、バカにされたことが

悔しくて毎日泣いた。

そして数日後、私は体調を崩した。

精神的にかなり弱っていた。

私は大学の保健室のようなところに

連れて行かれ、診察を受けた。


私は英語の中でも特にリスニング

苦手だった。

相手の言ってることが聞き取れない。

理解できない。それが大きな悩みだった。


お医者さん(?)は外国人で

日本語は話せなかった。

心配して付き添ってくれたガイドさんも

外国人で日本語が話せなかった。

お医者さんの言っていることが

理解できない。

体調が悪い上に理解できない英語で

あれこれ言われ、パニックだった。

お医者さんの話す英語を、

ガイドさんに通訳してもらい(英語)、

ようやく理解できた。

私は早口で話されると理解できないが、

ゆっくりハッキリ話してもらえれば

理解できた。

だから英語から英語に通訳してもらっていた。


体調が戻った頃、

向こうの大学のクラス分けのテストがあった。

英語力でクラスが分けられた。


他の留学生も含めたかなりの人数での

クラス分けが行われた。

日本人が大半だったが、

日本各地の大学から来ており、

ここで出会わなければ

一生会えなかっただろうなと思うほど

生まれも育ちもバラバラな人たちだった。

中国人留学生などもいた。


こうして向こうでの生活が始まった。