新編・銀河鉄道の夜 

 

読み終えて感じたことは、

「賢治は幸せではなかったのだな」ということです。(スミマセン・・汗うさぎ汗うさぎ

賢治の人生において・・確かに教師や農業をやるのも土や肥料の研究をするのも大きな使命を感じていたでしょう。

やりがいもあったと思います。

賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないかぎりは個人の幸福はありえない」を自分の信念とし実践してきた賢治。本編にも“自己犠牲“というワードを連想させるような「蠍の話」や「青年の話」、ジョバンニ自身の「百ぺん灼いてもかまわない」というセリフ。その生き方を理想としていたにも関わらず「それが本当のしあわせなのだろうか、本当のしあわせって何だろう」と問う。そして女の子と言い合いになる「神様」のくだりやカムパネルラの「お母さんは許してくださるだろうか」という疑問。

 

対比して「鳥捕り」はというと・・商売のため生き物を殺生したあげく押し葉にして売る(チョコレート味)という仕事で稼ぎ「来たいと思ったから来た」という生き方。自由に見えただろうし、ある意味うらやましい面もあったのではないでしょうか?

 

そもそも賢治は親の反対を押し切って東京に行き信仰を深めながら創作活動を行っていました。月に3千枚書いたときなど「原稿の中から一字一字とびだしてきて私におじぎするのです」とウキウキ弟に話していた位「自分自身」のやりたいことを思う存分できた日々。

 

ジョバンニの服から出てきた緑の切符。どこへでも行ける切符。カムパネルラと一緒に行きたかった幸せの世界に行くことができないと悟った時のジョバンニの絶望と賢治の悲しみがリンクしました。

 

現実の世界に戻りカムパネルラの父親と交わす場面。わが子の死を認め「また遊びに来てくださいね」とあっさり会話が終了。いつもの日常へ。

 

勿論、与えられた環境の中で創作活動を諦めることなく続け、同時に「農家の人々のためにできる限りの事を行う」という生き方は賢治自身も納得し、喜びを見い出せた日々だったと思います。

しかし心の奥底でどうしても消化できない“何か“があったからこそ幸せについて追求する気持ちや他者の幸せを願う気持ちがより強くなったのではないでしょうか。

 

自分自身を思い切り表現できる幸せと認めてもらえる喜び、それらが叶わない時の葛藤や妥協点を探すのは現代でも共通した生き方だなと思いましたし、何より人生をかけて熱い情熱を持つ事は人の心を震わせますね。

 

しっかし・・

読むの大変でした。アニメで一回みてからじゃないと理解できなかったです。

情景描写が難しすぎる!