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昨日。(今日?)



しょへの家に集合した。
もうほんっっっまに楽しい!!


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次は卒業旅行!!!


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(真面目な記事は続く。)



今さらながら、『永遠の0』を読み終えた。百田尚樹 著。






僕が改めて感じたのは、生への執着ってやっぱり大切というか、人間、生きててなんぼだよなあ、というか。そういうことだなあ。



時代とか一括りにして述するのは軽率かもしれないけれど、例えば今の時代は、周囲の圧力もなく生へ執着することができる環境だというのに、それにも関わらず自分で自分の命を落とす人がたくさんいる。この事実は、特攻隊員がカミカゼアタックで亡くなっていった事実と同等に暗黒めいてる気がするんだよなあ。

もちろん自分で生を断つ人は、命の重さと同じまたはそれ以上の苦しみを味わっていたことは間違いないのだろうけど、そんな苦しみがあることやそんな苦しみを生む環境があること、そんな時代、に悲しさを覚えるなあ。



その時代のことを語ることは僕にはできないけれど、今の時代を語ることができる。とするならば、この時代は、社会は決して生きやすい環境にはないのかもなあ、と思ったりした。僕はそんなことないんだけれど、ある人にはそうであるわけで、僕はただただ運良く生かされてるだけなのかもしれない。まぁ僕のことは置いといて、みんなが生きやすい社会の実現って、本当に無理難題なのかなあ。僕はそうは思わないんだけれど。やっぱり人は、互いに生かし合いながら人生を送るべきだ。と思うんだ。





なんか今こうやって書いてるけれど、改めて、もう少しちゃんと考えようと思ってる。






ところで先日弟のことを書いたブログ( 2014.02.16.「メッセージ。」) に似たようなことが、偶然にも小説内に書いてあった。ラバウルの章かなあガダルカナルの章かなあ、忘れてしまったけれど。

カミカゼアタック以前の兵隊さんは、死を恐れず国のために勇敢に闘う、という人が多かったという中で、宮部久蔵さんは生への執着は凄まじい人物だった。その宮部久蔵さんが、とある兵隊さんに、まぁ簡単に言えば、命をもっと大切にしろ、という旨の話をするのだけれど。そのときに「お前には兄弟はいないのか!」と宮部久蔵さんが怒鳴る場面があって。兵隊さんは、弟がいます、と答える。そして、その弟が、自分が死んだと知ったらどれだけ悲しむだろうか、ということを兵隊さんは考える。そうして兵隊さんは、生きることの尊さや意味を痛感する、というシーン。


もう完全にかぶっちゃって。ちょうど時期的にもタイムリーすぎてね。だから、弟が帰るときに言った言葉やらなんやらに、涙腺が緩んだ部分があったのかもなあ。何にせよ、僕にとっての生きる意味は、そこにもあって、それは誰にとっても同じでしょう、生きる意味なんて、本当はたくさんあると思うんだよなあ。



これはちょっと前の映画、宮崎駿さんの『風立ちぬ』を観たときも同じように感じたのを覚えてる。生きねば。っていうフレーズには、生きる目的を匂わせるけれど、それって、誰かの分まで生きる、ってことだったり、誰かの幸せのためや誰かを悲しませないために生きる、だったりで、まぁ結構シンプルだと思うんだ。ほんで、その目的はシンプルでも、生きることはやっぱり何より尊い。生きることで何か振動みたいなものを生み出せるんなら、やっぱり人は、生きててなんぼだ。








綴り方が下手くそでネタバレ満載だけれども、ちとアツくなってしもうたけれども。



生きるってイイよ、ツラいことも苦しいこともたくさんあるけれど、何とか今は耐え抜いてさあ、息してるのが楽しい時代にしないとね。人間、生きているっていうだけで、もうお偉いさん。だよ、絶対。だから、生きていこうなあ、ほんと。みんな。ね。








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動いている電車を撮ったときに、本来は真っ直ぐついているはずのドアが斜めについているように見える(ように写る)ことに気がついた。なんだか面白いなと思った。



写真はよく「実体(本当の姿)を写す」ものであるとされるけど、実はそうじゃないのかも、と考えた。斜めについたドアは、そのドアの本当の姿ではない。



じゃあ写真は何を写すんだろ、って考えたときに、あ、そういやちょっと前に「カメラって人間の目に似てるよなー」って思ったことを思い出して、それで合点。写真は「見えるように写す」ものなのかも!…っていう説。



シャッターを押すことは、まばたきをすることに似ている。人はまばたきをすることでそれまでに見てたものをまぶたの裏に落とす、カメラはシャッターを押すことでフィルムに落とす。ほら、似てる!

でも人はそのときに、ーーまばたきをするときに、見ていたものを記憶することはできてもそれを記録することはできない。カメラは記録することができる。人間の目に代わる装置なんだろうなあ、ということ。



それがつまるところの、「カメラの存在価値」というか、すごく大げさな言い方だけれど、役割というかなんというか…。アーカイブするという役割。人間は脳に刷り込むことはできても刻み込むことはできないのかもしれない。だからそれは、代わりにカメラがやる。そういうことかなあ。

余談だけれど、「印刷してこそ写真」という主張があるのは、そういうことなのかもしれないなあ。記録する媒体がデータなら、それは結局のところ脳での‘‘記憶”に他ならないわけで、それは‘‘記録”ではない、という考えなのかなあ、とか。

(僕も、印刷しよう…。)






そういうわけで、カメラっていうのは人間の記憶したいことを記録する装置でオイオイやっぱすっげえなあ!って小学生みたいな感想を抱いたのだけれども、それと同時に。

自分の代わり、となると、カメラ自体はやっぱり自分自身のゴーストだし、そうなると自分がファインダーを覗いてシャッターを押して撮った写真っちゅうのは、自分の目が見ているもの、見えているものを投影した、もはや自分自身なんだなあ。と感じたねえ。そんじゃあ、イイ写真撮りたいなら、もっともっと自分自身がイイ人間でなきゃなあ、っていう結論に至ったのダ。



…ふう、長い。





まぁ、忘れないように、雑記した次第。これも記録、書くことの役割~、とかなんとか戯言を吐いたりして。