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その本を、しっかり読んでいたことは事実でしょう。

 

『鳳仙花のうた』。

 

けれどその本は、もう廃棄してしまったのでしょう。

記憶が曖昧になっています。

 

15年前のブログに、李正子さんの短歌を三編だけ書いています。

読み返すことが、あまりに辛いと感じてしまいます。

莫逆の友Rと共に読めたならば、彼とわたしは、どうそれぞれの内部で受け取っただろうと、考えることの虚しさを見つめて、それでも答えを知りたいとの気持ちとなります。

 

この李正子さんの短歌集を、わたしは自らの手で紙ゴミとして処分したのかもしれません。

 

 『はじめてのチョゴリ姿に未だ見ぬ

                           祖国知りたき唄くちずさむ』

 

 『民族と出会いそめしはチョーセン人と

                             はやされし春六歳なりき』

 

これらの歌に込められた、

あまりにも強い想いを、

わたしなりに、

 

感じることが出来たのでしょうか。

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2010年11月04日(以下の前回ネット書き込み日)

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いつ読んだのか、

思い出せない。

 

なぜ手元に、

歌集がないか、

それすらも、

わからない。

 

しかし、

しっかりと、

記憶にある。

歌集「鳳仙花のうた」。

影書房の再版を、

購入したはずだ。

 

 《<生まれたらそこがふるさと>

          うつくしき語彙にくるしみ

                         閉じゆく絵本》

 

中学、高校の一部の教科書に、

掲載された歌という。

 

この教科書を開いた、

生徒たちには、

想像できたか。

 

教える、

教師たちは。

 

意味のない問い。

今、

俺も、

まだ、

想像できぬ。

 

この歌の、

気持ち。

 

友Rよ。

 

 《泣きぬれて文盲の母を責めたりき

             幼かりし日の参観日のわれ》

 

お前にも、

こうした日々が、

あったのか。

 

 《国籍の壁越え得ねば去る君の

             弱さが憎しじっと目を伏す》

 

この歌を、

俺は、

どう読み解けば、

よいのか。

 

 

今日の俳句

 

 秋寂びて隠る伏屋の白皙に

   アキサビテ コモルフセヤノ ハクセキニ

 

     補足

   「秋寂ぶ」晩秋の侘びしい感じ

   「伏屋」粗末な家

   「白皙」皮膚の色の白いこと