PANA's Metaphysical Days

PANA's Metaphysical Days

ぱなのブログです。
日々に思う事、多言語交流サークル・Hippoファミリー・クラブの事、福島潟の鳥の事、フットボールや競馬のこと、極たまに野球の事も書きます。
Contrary to the title, the content is trivial daily events.

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今日は、朝から津波注意報が出ていた。マリアナ諸島でマグニチュード8の地震が起こったという。
幸いにして、日本沿岸での異常潮位は、最大で数十㎝程にとどまったが、震災の記憶が生々しい各地では、油断なく警戒態勢がとられたと聞いた。

そんな今日の午後3時のNHKローカル直送便「紀の国スペシャル」では、近い将来、予想される南海トラフ巨大地震で「1人の犠牲者も出さない」ことを目指して、和歌山市で行われたある授業の事が、放送されていました。東日本大震災の際、高台に上って難を逃れた釜石市の子どもたちを長年指導してきた片田敏孝群馬大学大学院教授が「津波の正しい備え方」や「震災直後、釜石の子らがどう行動したか」など、実際に起きた事に即してわかりやすく語っていました。
https://pid.nhk.or.jp/pid04/RebroadNoticeInsert/Confirm.do?pkey=001-20130206-21-08691

釜石には、古くから「津波てんでんこ」という言葉がある。「てんでんこ」というのは、「各々各自で」という意味で、その後に「避難する」という言葉が省略されている。そんな釜石でも、この防災授業が始まった当初は、「大きな地震が怒ったらどうする?」という教授の問いかけに、ほとんどの子供が、「両親の連絡・帰宅を待つ」と答えたのだそうだ。

そんな子供たちに教授は、「君たちが待っていると思うと、お父さん・お母さんは、津波の中に身を投げ出しても、君たちに会いに行こうとして、死んじゃうかもしれないぞ」と言い「そうならないようにするには、どうしたらいい?」とたたみ掛ける。導き出された結論は、「津波から、一人でも多く助かるには、大きな地震の後には、自分一人で避難するという意思を家族に伝えておく」事だった。

つまり、「子供は、自分一人でも避難していてくれるという信頼が、両親が危険を犯して助けに行くのを防ぐ」というのだ。古くから、大地震と津波の危機にさらされながらも、この三陸地方に住み続けてきた人々が、自らの体験を通して、体得してきた、津波の際の最善の手段が、この「津波てんでんこ」という言葉に凝縮されているという。決して、独善的に、自分一人が助かろうとするという意味ではないのだ。

こんな事が、津波警報が発令の字幕が表示された背後で放送されたものだから、その説得力たるや、絶大なものだった。NHKスペシャルより、よく整理されて伝わっていたと思う。
写真は、本日(1/31)の地元紙に掲載された、新発田市に飛来したオオワシの写真である。
PANA's Metaphysical Days-オオワシの記事

私のFacebookの近況報告を読んだ人ならわかるかもしれないが、昨日(1/30)、地元紙の記者が取材に来ていたのである。私より年配のご婦人のいるグループの人たちと一緒にいたので、その後夫人が取材を受けていたのだと思っていたら、実は、この記者、とんでもない奴だった。

この男、野鳥撮影の取材に来たのに、焦点距離の短いレンズしか持ってきてなかったのだ。つまり、近くにある物しか撮れなかったのである。思うに、この記者、カメラさえあれば、何でも撮れるかと思っていたか、あるいは、最初は、撮影に集まっている人を撮ろうと思っていたのだろう。

ところが、現場に来てみると、自分のレンズでは、1mもあるオオワシでも、鉄塔の上にいたのでは豆粒にしか写らない事に気がついたのではないだろうか?これでは、とても記事にならないと思い、この記者のやったことは、なんと、このグループにいたご婦人に、「レンズを貸してくれ」と頼んだのである。

オオワシは、いつ飛ぶのか判らないのである。しかも、この人の持っているCanon純正のEFレンズは高価なレンズで、私のカメラが数台買える代物だ。そして、何よりも、貸している間中、彼女は1枚の写真も撮れないのである。当然、彼女は貸し渋ったのだが、「どうしても」と頼み込まれて、ここに集まっている写真愛好家たちの事が悪く書かれてもいけないと思い、貸してしまったのである。

いつ飛ぶか判らないオオワシに気をもみながら待っていたご婦人だが、レンズが返ってきたのは、オオワシが飛ぶ直前で、急いでレンズを付け替えて、構えた瞬間にオオワシが飛び立ち、ろくにピントを合わせる時間もなかったのだそうだ。

さて、この記事だが、このご婦人の事は一言も書かれていない。自分のレンズで撮った訳でもないのに、さも自分が撮ったかのように新聞に掲載されている。

自分のカメラのレンズが、この撮影に合わなかったと知った時、この記者は、他にとるべき手段はなかったのだろうか?現場には、このご婦人も含めて、数人のカメラマンがおり、その誰かに謝礼を払って、写真を買い取る手段もあったはずだ。

また、レンズを借りたご婦人に対しての態度は、どうだったのだろうか?まず、レンズを借りたことを書くべきではなかっただろうか?そう書けなかった理由は、一体何なのだろうか?また、どうしても書けなかったのは仕方なかったとしても、この人のコメントを載せる気遣いぐらいはできなかったのだろうか?
「白鳥の湖」というクラシックの名曲があるせいか、白鳥という鳥は買被られていると思う。「白鳥は湖に静かに浮かび、優雅に泳いでいる」ものだと思われてるのかな?このような幻想のベールを、少しだけ暴いたのはマンガ「巨人の星」の花形満である。「白鳥が優雅に泳げるのは、水の中で必死で足を動かしているからだ」という指摘だ。
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こういう指摘がされていながらも、白鳥への幻想は抱かれ続けてきたように思う。バード・ウォッチャーたちが、田んぼで二番穂や落ち穂を漁る白鳥の姿をアップロードし始めると、「幻想を壊された」と訴える反応が多かったように思う。
「じゃあ、白鳥って、何を食ってるんだ?」という疑問が、当然生じる。一般に、「地上を歩きながらイネなどの草の穂をしごき、ついばむ、水面に嘴を入れてこしとる...などして採食する。また、逆立ちして水中に上半身を入れ、水底の草・堆積物などを食べる。首が長いため、カモ類よりも深い水底まで採食できる。水草の葉、茎、地下茎、根、果実、落ち穂、マコモなどの植物質食」と言われている。
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最初私は、この「イネの穂をしごいて、ついばむ」という食性に疑問を感じていた。「イネが好きなら、稲刈り前にやってきて、稲を食べる害鳥になってもよいではないか?」と思う。それに、田んぼにいる白鳥の様子を見ていると、二番穂をしごいているよりは、稲の根元をほじくっているように見えたのだ。そこで私は、「イネ科の植物は、株別れによって、株を大きくしていき、増えていくのだから、稲の根や増えてくる株の新芽を食べているんじゃないか?」という仮説を立てた。
この仮説が破綻したのは、この秋の稲刈りの後の田起しによってだった。この秋は、何だか知らないけど、稲刈りの後に、田起しをする田んぼが増えている。そうやって根元から掘り返された稲の根元から、虫や節足動物があらわにされてしまうので、それを食べにネズミがやって来るし、さらにそれを狙うコミミズクが撮影されたりした。その写真をもらったのだが、私の撮影ではないので、お見せすることができない。
さて、一部の田んぼがそういう状態なら、稲の根や新芽は食べやすいように表面に出てきているという事である。私の仮説が正しいのであるならば、白鳥は田起しした田んぼに現れる筈だが、そうはならなかった。特に今年は、彼岸過ぎまで残暑が続いたせいか、稲刈りの後も二番穂が成長し、10月末になっても、まるで田植えの後の田んぼみたいに、稲が伸びている。ハクチョウたちは、そういう田んぼに、入り浸っている。
白鳥が稲刈り前に飛来しないのは、おそらく、その時期の日本の暑さに耐えられないのだろう。極寒の極東ロシアの地に生きている白鳥は、極上の羽毛をまとっているから、日本の残暑では暑過ぎると感じるのだろう。
福島潟に飛来するのは、ほとんどがコハクチョウだ。オオハクチョウが見たければ、南へ何キロか走って、阿賀野市の瓢湖に行くしかない。一番簡単な見分け方は、嘴の黄色い部分の大きさとその形だ。
PANA's Metaphysical Days-オオハクチョウの嘴
オオハクチョウは、黄色の部分が先端の方向まで伸びて、鋭角的な形になっているのに対して、
PANA's Metaphysical Days-コハクチョウの嘴
コハクチョウはその黄色の伸びが途中で止まり、形も鈍角的だ。時々混ざって飛んでくるアメリカコハクチョウは、黄色の部分がさらに小さく、嘴の根元だけが黄色という感じだ。
白鳥に対する幻想・買被りは食性だけにとどまらない。飛ぶ生き物としては、最も重いと言われるその体は、その大きさによる振る舞いで、繊細でか弱いというよりは、暴力的とか、周りに気が回らない粗雑さを感じます。
極たまにしか野球の事を書かないつもりだったんだけど、最初が野球になっちゃった。
今、プロ野球では、WBCの強化試合のメンバーが話題になっているけど、ちょっと前は、あの事件のことがよく言われていたと思う。いわゆる、日本シリーズの「当たっていない危険球」の事。なぜ、これに引っかかったかというと、該当選手が私の地元の高校を出た選手だからだ。

事実関係の確認を言葉で書くと長くなるので、動画のリンクを貼ることにする。


ご覧の様に、当たっていないのに、当たっていると主張し、訴えられた投手は「危険球」を投球したとして、退場を宣告されたのである。野球という競技は、審判の権威を尊重するため、このような微妙な判定の場合、球場内でのビデオ再生は行われてはいないと思う。しかし、今の世の中、こんなものは、スマホで簡単に受信できてしまうから、審判と当該選手、監督への非難は当然起こる話だ。

シリーズ後のスポーツ番組でも、これを話題にした人は多かった。印象的なコメントは、桑田氏の「高校や大学の野球部では、打てない時は、ボールを体に当ててでも塁に出ろと言われていた」そして、「もう、それは良くない事だから、そういう指導はしない方がいい」という事だった。ましてや、今回は当たってさえいない。

私は、この事件の当該選手の名前を聞いた時に、地元出身選手であることで、少し恥ずかしい思いをしたものだったが、桑田氏のコメントを聞く限り、他の地域でも似たような指導を受けたり、監督やコーチからではなく、多くはOBから言われて、やってる場合が多いのだろうなと思った。

私が高校野球をしていた時代もそうだった。打席に入る時に、ユニフォームをダブつかせ、ベルト近くを通るボールにかすらせろとも言われたことがある。ある試合で、先輩選手がホームで捕手にスパイクして、落球させて得点した。判定は、故意のスパイクとは認められないからとのことで、得点が認められたのだが、後味は悪かった。後年、先日亡くなられた監督を囲む会で、この話が話題になった時、先輩は「頭から行こうか、脚から行こうか迷った末、脚から行ったのだが、体が小さくて、浮き上がってしまった」と言ってました。

別の先輩から聞いた話なのだが、この人は、学校では優等生だったことから、試合の前日、そのことで、OBから冷ややかな皮肉を浴びせられていたと聞いたのだった。先輩は、「故意にやった」とは言えなかったのだと思う。

別の機会で、私は、審判員をしているOBからも、「甲子園でさえ、2塁ベース上で、脚を踏んだ踏まないの言い合いをしている。お前らは大人し過ぎる」との叱咤を受け、甲子園という夢の舞台への憧れに、すっかり水を差してもらったものだった。かくして、日本の野球選手のマリーシアは、薄汚く育ってきた。

まさに桑田氏の言うとおりだ。もうこんな事は、1塁ベースへのヘッド・スライディングとともに、止めてしまうべきだ。

また、ビデオ判定を導入すべきとの声も上がっているが、その前にやっておくべき事があるような気がする。すなわち、このような、「審判を欺くようなシミュレーション行為には、一発退場を宣告する」という一文を書き加えればよいのだと思う。そもそもこれは、危険球ルールができた時に、一緒に導入すべきだったと思う。