パーシャのピカンピカン

パーシャのピカンピカン

ひびの くうはくの りんかく




いてたら、とても姿勢がいいおばあさんに道をたずねられたので教えたんだ。「あの角を曲がってちょっと歩いたらすぐ見つかりますよ」って。地下鉄の駅。

そしたらそのおばあさんは「どうもありがとうございます」とお辞儀をしてから顔を上げて、にっこり笑って「今日は本当に暑いですね」と言った。

「そうですね、もう秋なのに暑いですね」

「夏は終わっちゃったのに、こんなに暑いのねえ」

そしておばあさんは「今日はたくさん話しましたね」と言って、立ち去った。

実際は30秒も話してない。天気の話を一度しただけ。

もうずいぶん前なのに、今でもときどきあのおばあさんのことを思い出す。とても姿勢が良かった。髪はグレイ。はきはきしたよく通る声だった。

そういうことってよく覚えてるんだ。うまく説明できないようなこと。すごくおもしろかったとか悲しかったとか、そういう極端なことはあまり覚えてなくて、もっと何か、、何かと何かの真ん中みたいな出来事が記憶に残る。たとえば友人について思い出すときも、笑ってる顔や怒ってる顔よりも、ほんの一瞬のぼうっとしたような表情をよく思い出す。

そういえばこないだ、自分が書いた古い文章を見つけたんだ。すごい昔に書きかけて途中でやめちゃったやつで、実際まったく覚えてなかった。10年以上前だと思う。もしかしたら15年以上かもしれない。これがその文章↓

「いつか自分の時間ができたらやりたいと願っていることが、いつかできる、もうすぐきっとできる、もう少し頑張ったら自由になれる、と思いながら、毎日終電で帰りながら、ときどき海外に行って、飛行機でも電車でも、移動中も常に仕事をしていて、それでも絶対に間に合わない仕事をしていて、でもいつかゆっくりできるって信じるしか頑張る力を保つ方法がなくて、15時間のフライトから解放されて成田から職場に直行してその日も終電まで働いて、走ってホームまでの階段をおりながら、こんなふうに生きていきたい、って昔から思っていた理想の生き方とあまりにもかけ離れた現状が、現実とは思えなくなってきて、多分それって現実逃避だよね、急に全部セピア色に見えてきて、こんな日々もいつか体が動かないくらい弱ったり年老いたりしたら、遠い将来に振り返ることがあったら、精一杯生きていた輝かしい時間として思い出せるんだろうか、って思って、そんなふうに肯定するしかなくって、でもやっぱり自分が生きたいような人生、いつか自分の時間ができたらやりたいと思っているようなことは、一生できないんじゃないかって気がして、駅のホームで突然涙が出そうになった」

こんなツライ時期のことなんてまったく覚えてなかったよ。「いつか思い出せるんだろうか」じゃねえよ……。涙が出そうになったってくらいなのに、今じゃ1ミリも覚えてない。それってどんな記憶力なのよ金魚かよ、いやもうダチョウとかかよ。あのさダチョウってなーんにも覚えないらしいよ。たとえば大勢で喧嘩とかしてみんなで入り乱れたとするじゃん、でその後はそのままフツーに別の家族と暮らしたりするんだってもう全部忘れちゃってその場の流れで真顔で。乱闘したことだけじゃなくって、一緒に暮らしてた家族のことも記憶から消えちゃってさ。入り乱れてワーッ!ってなったもんだからもう全部リセットで「ええと、まいっか」って。すげえなダチョウ、スムーズ。

ていうか当時の俺なんでそんなに頑張ってるんだろう。「そんなクソ仕事サッサと辞めておしまい!」 って言いたくなるけど、考えてみたら、そういうエクストリームな、騒々しい端っこがあるからこそ、静けさに満ちた真ん中が存在するんだよね。つまり俺は極端な悲しみや喜びや苦痛や快感を確かに経験してきている。が、それらのことは外側において、自分の体験として殻のように配置したまま、すっかり忘れてしまって、それらから離れた真ん中にいて、その空間でいろんなことを感じてるってわけなんだ。真ん中では風も吹かない。台風の目みたいなもん。静かだし何もないから、わずかな動きもはっきりと感じる。無の空間に近い。見ていると空間の奥の奥の細かな粒子まで見える気がしてくる。

 

極端なことってさ、心が全然覚えないんだ。体だけが覚える感じ。だからいくら思い出そうとしても思い出せない。多分体が覚えてる。

そういえば、そういうたとえ話とは別に、実際に今、何かのど真ん中みたいにとても静かな場所にいるんだよ。夜になったらまったくの無音になるし、あたりは真っ暗闇。空の星と月しか見えなくなる。

 

東京を離れて瀬戸内の島に引っ越して、海のそばで暮らしてるんだ。多分、俺の人生自体、いまがど真ん中なんだ。何の音もしないし、毎日何も起きない。いや、実際にはいろんなことが起きていて、たとえば幼い子供たちがいるしいつもとても騒がしくて楽しい。さっきのあの昔の文章のツライ頃と今とでは違いすぎて、人生の変化が大きすぎるし速すぎるしで、まるで超光速でワープしている最中に完全な静寂に包まれているような、そんな感じ。心っつーか魂っつーか精神っつーか、とにかく自分の存在の深いところにある核の部分がしんしんと静けさを感じている。

 

「風はどうしてつかめないのかな」「初めてお風呂で顔をつけて潜った!」「月がまぶしすぎて眠れない」「おはようございます」「さようなら」「今日も珍しい貝を探しながら保育園に行こう」「死にたくない」。ガシッとした存在感のある、何の飾りもない、ヘビーな出来事だけがひとつずつ確かめるみたいにハッキリと起こって、音もなく染み入って消えていく。大切なことだけが起きているし、俺が心臓を動かしてこうして肉体を持って生きているということは確実に完璧に実在する出来事だから、本当のこと同士で相性が良すぎて、自分自身の存在と周囲の出来事が溶け合って、区別がつかなくなっている。浸透圧がゼロ。

 

神様が毎日、息をするように気軽に本物の出来事だけを投げつけてきて、投げつけられてる俺自身も本物の出来事なもんだから、違いがなさすぎて何も起きないし、何もわからない。ねえ、俺ってばもしかして死んだのかな。ありえなくもないよね。


まあでも君は生きてる……よね?  これを読んでる君が生きてるなら、俺も生きてるってことなんだけども、君が死んでるなら、俺も死んでるってことなんだろうね。つまり俺の生死については君次第ってわけなんだよね。

 

嗚呼なんだか今日は、たくさん話しましたね、ではまたね。