この世は資本主義なのかなんなのか、それはさておき。
世の中のリッチには先祖代々からの伝統的なリッチと、いわゆる一代で成り上がったガッツリッチに二分される。
先のトラディショナルなリッチは税制度と法整備に6割がたその方向と財産の質量を左右されるのだが、ガッツリッチの場合はその環境に左右されると思っている。環境とは何か?学歴か職歴か?いや、端的に言えばその環境の本質は『マイノリティであるか否か』であろう。つまりは嫉妬、逆境、なにくそ根性に代表される人間のストレートな感情をだせるかどうかこそが重要となると思う。
本当か?
トラディショナルな方はともかく、ガッツリッチの場合は、職業柄おそらく相当のケースを見ているので、この分析についての異論は跳ね返す自信と事例がかなりある。まず人間というのはその環境によって左右されてしまう生き物なのだ。悲しくも有るが環境を変えれば人は変われる、という事にはある意味希望の香りを感じ取る事も出来るケーススタディかもしれない。
で、なんで、こんな話をぐだぐだとしたのか。
ちと閑話休題。
この都市もご多分に漏れず、アジア系、多くは中国からの移民を多数見かけるようになった。
そして、本日、とある料理店にたまたま入ることができた。そうである、その店の話である。その事を日記に書こうと思って話がえらい方向に飛んでしまったのだ。
どんな店か?
その店は移民の人たちが多く集まる、実に気分の良い店だった。
その店舗における公用語は日本語ではなかったし、その店内だけでいけば日本の法律さえ通用するかが怪しかった。
そして店内に溢れる顔、顔、顔。これらはいずれも日本に働きにきているという背景から感じる事が出来るドラマがあった。とともに、我々には遠く及ばない生への本質を色濃く感じ取ることができる表情をしていた。とにかく、その表情が実に良い顔をしていたのだ。良い『顔』で料理を食しているのだ。そして、それらを目で追ううちに金槌で殴られた様な錯覚を覚えてしまった。
ー
商売の本質とは何なのだ。
漠然とした想いが、ぶらん、と垂れ下がるようだった。
この料理店は、料理を出しているのではないのだ。
母国から遠く離れたかの地で、故郷の味を、香りを、音を、いわんや故郷の空気そのものを提供しているのだ。ここに通う人たちの、毎日の、365日の喜怒哀楽を想像するに、この料理店の存在とは、単なる食事を提供するお店では片付ける事ができないものがあるんだろう。それだけではないのだ。森羅万象に多情多恨たれ、という教えを地でいくぼくには、その後ろにあるであろうドラマを想像し、想いを馳せ、この長ったらしい日記を書くに十分なドキュメントが有った。感動すら覚える出来ごとだった。
話は最初の議題に戻る。
つまり資本主義の相当数を占めるであろうリッチグループ。それらの半数を占めるガッツリッチ、その必要条件であるマイノリティ、その環境をサポートする、支えるという場所の提供こそが諸々の本質なのではないかと思うのだ。マイノリティというと少し語弊が有る、つまりコミュニティ/人間同士のつながりをサポートする役目。それらを助けあう場所こそが本質なのではないかと、そう思ったのだ。
そもそも店舗とはそういった本質を抱えている。そして村や町もその延長線上にある。
言及すれば県も国も、そして地球全体すらも、その本質を逸れる事はできないのだ。
世の中のリッチには先祖代々からの伝統的なリッチと、いわゆる一代で成り上がったガッツリッチに二分される。
先のトラディショナルなリッチは税制度と法整備に6割がたその方向と財産の質量を左右されるのだが、ガッツリッチの場合はその環境に左右されると思っている。環境とは何か?学歴か職歴か?いや、端的に言えばその環境の本質は『マイノリティであるか否か』であろう。つまりは嫉妬、逆境、なにくそ根性に代表される人間のストレートな感情をだせるかどうかこそが重要となると思う。
本当か?
トラディショナルな方はともかく、ガッツリッチの場合は、職業柄おそらく相当のケースを見ているので、この分析についての異論は跳ね返す自信と事例がかなりある。まず人間というのはその環境によって左右されてしまう生き物なのだ。悲しくも有るが環境を変えれば人は変われる、という事にはある意味希望の香りを感じ取る事も出来るケーススタディかもしれない。
で、なんで、こんな話をぐだぐだとしたのか。
ちと閑話休題。
この都市もご多分に漏れず、アジア系、多くは中国からの移民を多数見かけるようになった。
そして、本日、とある料理店にたまたま入ることができた。そうである、その店の話である。その事を日記に書こうと思って話がえらい方向に飛んでしまったのだ。
どんな店か?
その店は移民の人たちが多く集まる、実に気分の良い店だった。
その店舗における公用語は日本語ではなかったし、その店内だけでいけば日本の法律さえ通用するかが怪しかった。
そして店内に溢れる顔、顔、顔。これらはいずれも日本に働きにきているという背景から感じる事が出来るドラマがあった。とともに、我々には遠く及ばない生への本質を色濃く感じ取ることができる表情をしていた。とにかく、その表情が実に良い顔をしていたのだ。良い『顔』で料理を食しているのだ。そして、それらを目で追ううちに金槌で殴られた様な錯覚を覚えてしまった。
ー
商売の本質とは何なのだ。
漠然とした想いが、ぶらん、と垂れ下がるようだった。
この料理店は、料理を出しているのではないのだ。
母国から遠く離れたかの地で、故郷の味を、香りを、音を、いわんや故郷の空気そのものを提供しているのだ。ここに通う人たちの、毎日の、365日の喜怒哀楽を想像するに、この料理店の存在とは、単なる食事を提供するお店では片付ける事ができないものがあるんだろう。それだけではないのだ。森羅万象に多情多恨たれ、という教えを地でいくぼくには、その後ろにあるであろうドラマを想像し、想いを馳せ、この長ったらしい日記を書くに十分なドキュメントが有った。感動すら覚える出来ごとだった。
話は最初の議題に戻る。
つまり資本主義の相当数を占めるであろうリッチグループ。それらの半数を占めるガッツリッチ、その必要条件であるマイノリティ、その環境をサポートする、支えるという場所の提供こそが諸々の本質なのではないかと思うのだ。マイノリティというと少し語弊が有る、つまりコミュニティ/人間同士のつながりをサポートする役目。それらを助けあう場所こそが本質なのではないかと、そう思ったのだ。
そもそも店舗とはそういった本質を抱えている。そして村や町もその延長線上にある。
言及すれば県も国も、そして地球全体すらも、その本質を逸れる事はできないのだ。


