津波注意報が出ています…。

なんかもう…涙が出そうです…。

絶対に、絶対に、海や川に近づかないでください!!!


また最近、地震が多い気がします…。

やっぱり、良くない意味でどきどきします…。

沿岸地方に行ってきたので、余計に怖く感じます。

もう何もひどいことが起こりませんよう…。

地震と津波だけじゃない、豪雨も、雷も、台風も、竜巻も、噴火も…。


南海トラフも、最悪の死亡想定者数が32万人と出ました。

多すぎですよね…。

でも…そうならない保障は、それ以上にならない保障は、どこにもなく、

いつどこで巨大地震が起こるのかもわからない…というのが、

人間を超える自然の、恐ろしいところです。

全く想定外の地域かもしれないし、想定通りの地域かもしれない…。

元々、地震が多く、津波被害や言い伝えがあった地域でも、

大きすぎる被害が出てしまったのですから、充分すぎる対策を取って、

取りすぎということは、きっと、ないのです。






その日、海は、とっても穏やかで、キレイでした。




多分、2年前に行っていれば、

「うっわー!!!キレイー!!!入りてーーー!!!」

と、テンションアップするだけだったろうと思います。

今となっては、やっぱり、どうしても、

「今は、こんなに波が穏やかなのにね。」

という会話になってしまいます。




実際は、先に北部に行っております。


でも、まずは南部から書くことにしました。



言葉を選んだつもりではいますが、沿岸地域にお住まいの方、

被害に合われた方が、もしこれを読んで、不快な気分になったら、

本当に申し訳ありません。

でも、正直に、感じたことを書いていきます。




最初は、東和町(現花巻市)にある、父親の大本家と総本家の

お墓参りをするだけの予定の日だったんですが、

お墓参りの後に、このまま釜石街道を通って、釜石に行ってみたいと

弟が言い出しまして。

連日それなりに長い距離を運転していた弟が行きたいって言うなら、

私も気になってしょうがなかったので、行こうじゃないのとなって、

行ったわけです。


結局沿岸南部は、ほぼ国道45号線を行きつ戻りつをしながら、

山田町~陸前高田市の間を車で走ったと思います。



実際、道の駅以外で車を降りたのは、陸前高田で1度だけでした…。

あとは車の中から、町を、市街を、見ました。

どこでも降りれそうで、でもどこで降りたらいいのかわからない…

という状態でした。

正直、絶句…というか、1年5ヶ月以上経った今でも、

想像以上の状況でした。


1年って早いよねーみたいなことって、普段よく言ってるくせに、

現実をわかっていなかったわけです。



やっぱり、四角い画面の中の世界とは、全く違いました。

ちゃんと街中を歩いていれば、更に違った気持ちだったと思います。


それでも、車の中からでも、必死にならないと、

涙をこらえられませんでした。


沿岸北部に行った日と同じように、カメラは持っていきましたが、

撮る心境には、なれませんでした。


津波が押し寄せてきた土地を見ると、

復興なんて、まだまだじゃん…と思いました。


実際の津波が、かなりの高さ、かなりの広範囲に押し寄せたことを、

行って、実感しました。

テレビであれだけ見たはずなのに、こんなところまで…と思います。

映像だと、津波の勢いや激しさはわかりましたが(多分これも

実際はわかっていないんだと思いますが…)、

映っているところが、海岸からどのくらい離れたところなのか、

実際の津波の高さも、よくわからないんですよね…。


東京でビルの3Fや4Fを見て、この高さだったんだ…と思うことも、

どれだけその高さを実感できていなかったか…。

現地で、破壊された姿でかろうじて残るビルの3Fや4Fを見るのとでは

感覚が全く違いました。

『壊滅』と言葉では何度も何度も聞きましたが、こういうことなんだ…と

初めて理解しました。


それでも、その町で、必死に、笑顔で、生きてる人たちがいる…。


海には、綺麗に並んだ養殖か何かの浮きのようなものが、

たくさん見えました。


堤防の海側に、漁業組合の建て直しかな…と思われる

建設途中の建物の骨組みもありました。


流されてしまった道の駅やスーパーの多くは、

場所を変えて、営業していました。


のれんが出ている食堂もありました。


仮設住宅の近くに、仮設住宅に住んでいる方々が、

自分たちの力で作り上げたであろうプレハブのお店が、

立ち並んでいるところもありました。


今回、1店舗入ったら、全部に入らないと気が済まなくなりそうで、

お金を使う場所を、道の駅にしましたが、次に行くときは、

絶対にちゃんとお店に入って、お店のものをいただきながら、

お店の方々とお話をしたいと思います。



そして…その一方、方面や方向を示しているであろう道路標識の多くに、

ブルーシートが巻かれているところもありました。

何だろう…?と思ったら、「道が、なくなったんじゃないか。」と、弟。


国道45号も寸断されているところが多々あって、

そういうところは、仮設道路を新たに作って、つなげていました。


1年5ヶ月以上経った今でも、『取り壊してください』と

壁に大きく書かれている家もありました。

書いた住人の方は、どんな思いで書いたんでしょう…。


1Fはあちこち骨組みが見えていたり、ベニヤだらけだったりする家の、

その2Fで生活している方たちもいました。


『ガレキ』と呼ばれるものに、形を変えたものの山も、

いくつもいくつも見ました。


ここまできたんだ…と思わせる高台途中の木々の茶色く枯れた状態や、

高台のえぐられた土…。



もちろん北部にも爪痕は、はっきりと残っています。

でも、正直言いまして、南部のほうが言葉にできない状況というか、

これを、どうしていったらいいんだろう…と呆然とする状況でした。



高台など、津波被害のない土地に、何かを建てたり作ったりするのは、

あの当時、命より大事ですか???と問い詰めたくなった『規定』による

『手続き』というものが済めば、そう時間はかからないのかもしれません。

でも、その『手続き』をする準備が整うまでが、まず大変だと思われます。

そして更に、その『手続き』が済むまでが大変なのが、

日本という国なんですよね…。

どうにかならないんでしょうか…???


そして、津波が押し寄せたあの土地がどうなっていくのか…

まだちょっと…実際にこういうふうに土地を活用しようと決めて、

動ける状況に、ない気がします…。

もし動き始めていたら、ごめんなさいですが…。


ほんの少し前は、家や商店やビルなどが、建っていた場所です。

ほんの少し前は、人やペットなどが、生活していた場所です。





多分、宮城県の気仙沼や石巻など被害の大きかった地域も、

同じような状況かと思います。

もしかしたら、もっとひどい状況かもしれません…。




なんか…私は…東京で安穏と暮らしていていいんだろうか…。

震災後にしばらく思っていたことを、改めて思いました。


原発被害の地域を含め、被災地と呼ばれる地域のことは、

1日も心から離れたことはありません。

もちろん、起きてる時間、ずーっと考えているわけではないですが、

1日に何度も、何度も、何かにつけて頭をよぎります。


今は東京にいますし、こっちでの暮らしのほうが長くなりました。

でも、甲子園の光星学院の家族の方の言葉を一部借りるなら、

岩手で生まれて、岩手の空気吸って、岩手の米食べて、岩手の魚食べて、

岩手の水飲んで、岩手の言葉しゃべって、岩手で育ちました。


何かしたい。

今、東京にいて、何ができるんだろう。

募金だけじゃない、何か。

もしかしたら何も思いつかなくて、結局募金だけかもしれない。

でも、考えてみます。


多分…まだまだでしょう。

もちろん、少しずつは動いていると思いますが、

長い長い年月が、かかると思われます。

それでも、ゆっくりでも、必ず元に戻れる…。

そう信じています。




唯一、車を降りて、撮影できたもの。

高田松原で、たった一本だけ残った、一本松。

何枚か撮ったうちの1枚です。

9月12日に、切り倒されて、保存されるようです。


津波で倒れてしまった松のその後に関しては、

言いたいことは山ほどあります。

でも、言葉にしてしまうと、まず自分自身が不快になるので、

胸にしまっておきます。


多分、この一本松は、その倒された7万本の松と一緒に、

津波を、ほんの少しでも、抑えてくれたんだろうと思います。



どすこいトモコのつれづれなるままに…。