[私の自己紹介]
誕生日 1978年9月27日(日)
血液型 AB型
身長 157㎝
体重 4○.2㎏
足のサイズ 21.5㎝
視力 0.1
好きな色 青、ネイビー
好きな花 ラナンキュラス
特技 ピアノ、絶対音感
趣味 ウォーキング
[幼少の頃の家族の形]
父、母、祖父、祖母、私、の5人家族
父→JR
母→看護師
祖父→重度のアルコール依存症
祖母→1993/2/8(月)に縊死により自死
[現在の家族構成]
夫(44)、私(44)、娘(8)、デグーのあおい(4歳)
金魚
夫→自営業
娘→小学2年生
私→レジのパート
[私の生い立ち]
[4歳→両親離婚]
ある秋の日曜日の正午前、突然母が家を出る。裸足で必死に追いかけたけど、残念なかわら最後の別れにその背中も見る事が叶わなかった。
[5歳→父に女性の影]
父は離婚後ろくに自宅に寄り付かず、アパートを借りて私の養母となる人と半同棲
[7歳→父の入籍&結婚式]
入籍は事後報告、結婚式は式の一週間前に知る始末。子供ながらに全く自分の価値が見えなくなり、自尊心や自己肯定感は完全に崩れ去り、友達もおらずいつも独りぼっちの小学校生活を送る
[13歳→祖母がうつ病発症]
中学に入学した私は陸上部に入部し、勉強はそれなりだったがスポーツは大の得意。部活の掛け持ちもして、水泳部の大会にも出場。
[14歳→祖母が自死]
1993/2/8(月)最愛の祖母が自宅の物置小屋で縊死により自死を遂げる
[15歳→私自身がうつ病に]
授業が頭に入らない、やたらと眠い、集中力が無は無くなり勝手にポロポロ涙が出る、性格はまた小学生の頃に逆戻り。あまりの不調に一人バスに乗り自宅からかなり離れた精神科を受診の際「うつ病」と診断される。薬を処方されたものの、怖くて服用はせず病を放置。無知な私は、うつ病は放っておけば自然に治ると思っていた。
[17歳→祖父の死]
高校の頃、祖父が飲酒後自転車に乗り、橋の上で横転、大腿部を損傷で入院。片方の足は膝下から切断し義足の完成した暫らく後に病院で他界。
[23歳→病名=うつ病、強迫性障害]
意を決し、自力では治らない精神疾患と向き合う為に、メンタルクリニックを受診。うつ病、強迫性障害と診断される。
[26歳→結婚]
[33歳→妊娠するも初期流産]
[34歳→7月医師に相談せず突然断薬]
[34歳→8月妊娠]
[35歳→出産]
産後にうつ病が悪化。市の保健師の勧めで県内でもかなり有名な大病院、女性の為の精神科「女性外来」を訪れる。主治医は女性、名前はYUKAさん。出逢って僅かでその病院の医院長の方針により女性外来は閉鎖され転院を余儀なくされる。
[37歳→最悪な医師との出会い]
YUKAさんの紹介状を手に自宅から比較的近場のクリニックを受診。主治医は横柄な態度の男性医師。自身には合わない薬を処方され副作用のアカシジアの出現に変更をお願いするも「あなたがここへ通院する限り、エビリファイ以外の薬は処方しません」と断言されて通院停止
[38歳2月→現在通院するクリニックへ]
紹介状はなかったけれど男性の主治医は快く迎えてくれた。
[40歳9月→順調に回復を遂げていた強迫性障害の悪化]
強迫性障害のお薬であるフルボキサミンマレインの減薬も成功し(1日のトータル25㎎)あと僅かでゼロになりそうなその頃に、娘が保育園で感染性胃腸炎を患って、その日以降狂ったように家中大掃除するようになり一気に強迫が悪化して現在は増量の処方(1日のトータル100㎎)となっている
[41歳7月→不調を感じていた手足の痺れを診て貰うため整形外科へ]
2020年の月より両手足や背中、腰痛等が酷く、限界を感じた私は整形外科を受診。頚椎症性神経根性と判明し現在は脳神経外科で治療中。
[41歳9月→うつ病の卒業]
通院先の心療内科の主治医より15歳から26年間闘病したうつ病の寛解を告げられるものの一進一退で日常を奮闘中。
[43歳8月→夫と別居]
夫からの提案で別居中。距離を置くことで夫婦の形を模索中。お互いの時間を充実させて良い関係が築けることを願って育児に全集中。