2日後、連絡を受けた隊から迎えが来て帰隊しそのまま基地の病院に入院した。
幸運にも村に医者が居たこと、そして村の人たちの献身的な看護で何とか一命を取りとめたらしい。
冷たくなった身体を必死で温めてくれたらしい。
台湾沖航空戦を生き延びられたのはこの負傷があったからだろう。
内地から次々と増援が来て飛び立っていくなか、私は病院のベッドに居た。
数日後、担当の看護婦が憤慨して病室に飛び込んできた。
「搭乗割に名前が出とる。どして、まだろくに動けんのに。私文句言ってくる。」
心配してくれる者が要るのはありがたいことだ。しかし搭乗割が出た以上行くしかない。
実際搭乗員の不足は深刻なのだろう。
毎朝大編隊で出撃するが、帰ってくる者はわずかだ。航法未熟で中国大陸まで行ってしまう者も居ると聞くが、それにしても少ない。
朝は大賑わいの食堂が夜にはがらんとしている。
朝はいっぱいだった8人掛けのテーブルが夜には私ひとり、手付かずの膳だけがおかれている。そんな日が続いた。
戦後、台湾沖航空戦の戦果は大誤報で、実際は完全な負け戦だったということがわかったが、当時の我々は必死に奮戦して追い返したと信じていた。
必死とか死に物狂いとはちょっと違う悲壮という感覚だったのだろうか。今になっては想像するしかない。
とにかく敵は数において常に圧倒的だった。我々数十機の編隊に対して敵は数百機で待ち構えている。
生きて帰るなど想像もつかない。それでも突撃する。
劣勢なのも後がないこともわかっている。
艦爆隊は通常の降下角を越えてほぼ垂直に、文字通りまっさかさまに突っ込んでいく。
ぎりぎりで投弾して必死に引き起こす。エンジンが唸り機首は上を向いても機体は沈み続けて海面ぎりぎりでようやく上昇をはじっめる。
艦攻は雷撃進路に入ると墜されても墜されてもただまっすぐに突っ込んでいく。そうするしかない。
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