中学に入っても父や兄の暴力はとどまる事を知らなかった。そして中学2年のある日、原因は忘れたが兄に一升瓶で右ひじ付近を殴られ、静脈が切れて大出血。

 7-8針縫う大怪我。私はもうこんな家には住めないと、救急車が来るのも待たずに家を飛び出した。

ちょうど友達が遊びに来たので近くの公園まで一緒に逃げる。

 血はどうやっても止まらない、焦る中、救急車とパトカーに見つかり病院へ。

この事件をきっかけに、私は家を出る事に決める。学校へは給食だけを食べに行く生活、中学2年生ながらも飯田橋のおそば屋さんでアルバイトをし、友達の家を歩き回る毎日。

 外で寝た日も何度もあった。 この経験があるから私は今ではどこでも寝る事が出来る。

 学校も行かず、お金はある中学生。私はシンナーに手を出した。

生活は荒れる一方。父も母も兄も私が家を出るので何も怒らなくなる。

中学2年にもなり、身体も大きくなる。学校でも家でもやりたい放題だった。

幼い頃から抱えていた両親への復讐が始まった。

 何か少しでも気に入らない事があると物を投げたり両親にも何度も手を挙げた。

幼い頃から不満に思っていた「束縛」が、初めて取れた時、私は爆発してしまった。

学校の先生も家族も手に負えず、両親が警察に連絡をし、ある日目覚めた時、目の前には私服警官が2人ベットの前に立っていた。

学校に行く前であったがそのまま顔も洗えず手錠をはめられ警察署へ、そのまま鑑別所に入れられた。

親が警察を呼んだ?私は言葉にはならない思いと怒りが込み上げてきた。

当時14歳。鑑別所でももちろん最年少。3週間収監された。

中には明らかに暴走族の兄ちゃん、チンピラみたいな連中がゴロゴロいた。テレビの世界だった。

ある日、風呂場でいかつい兄ちゃんが「何やったんだ?」と話しかけてきて事情を話すと「初犯なら出れるよ」とアドバイス。

 当時の私もまさか14歳で少年院に入るとは思わなかった。1年4カ月も。

なぜなら本来14歳という未成年者であれば、親が保護するので私の罪状の「ぐ犯」程度では1発で長期の少年院に入れられる事はまずない。

 入っても短期の3か月程度だろう。ちなみに「ぐ犯」というのは「このまま大人に成長すると将来犯罪を犯す可能性がある」という意味で、まだ犯罪を犯してない状態。

 突然私の中学生ライフは豚箱へと変わっていった。

 今日は、始めに私の生い立ちから簡単に説明させて頂きます。

私という人間が、今までどういう人生を歩み、何を感じ、なぜ世界1周旅行に行こうと思い立ったのか。

 私は和歌山県で生まれるが、両親の仕事の都合で転々とし、東京に連れて来られる。

父と母、兄と私の4人家族で都内の一戸建てで育つ。

 幼少の頃、私は勉強は2の次で、サッカーや野球、身体を使うスポーツが好きなのに対し、3つ上の兄は学校の成績が良く、性格は私の逆で大人しい。

 当時、勉強のできる兄と出来ない私、比較されるのは仕方なかった、でも許せなかった。

 幼いころの記憶と言えば、厳格な父に毎日のように殴られ、兄に殴られ、母に噛まれるという記憶がほとんど。

 家族でどこかに出かけたり一緒に遊んだ記憶は私には無い。

 何より家の「しつけ」が父の影響で非常に厳しかったです。

 門限、テレビの見る時間(1時間だけ)、食事の食べ方、全てにおいて同じ世代の友達と比べてみても異常でした。

 当時ファミリーコンピューター(ファミコン)が出た時代で、小学校ではテレビの話題や当時人気だった「ドラゴンクエスト」の話題が人気だったが私はもちろん取り残された。

 唯一身体を使って遊ぶにも門限が他の友達より早かったため、常にみんなより早く家に帰らなければいくなかった。

 門限に1分でも遅れると、何時間も立たされるか、正座させられ、父が帰って来ては殴られる。

 門限を守っても、仕事で疲れて帰ってきた父は何かと理由をつけて僕を殴った。理由が無い時も多々あった。

 そんな中、幼いながらも私は自殺を何度も考えた。でもできなかった。

幼い私に芽生えたのは「復讐」と言う2文字だった。

 小学生の高学年になると母親より身体も大きくなり、母から耳を噛まれる事は無くなった。

 中学に入ってからも、父と兄からの暴力は絶えなかった。

 そして中学1年生の冬に、初めて父に逆らったら殴られ、部屋を目茶苦茶にされた。

 もうこの家に住むことに限界を感じ、初めて家出をした。

 しかし何の計画もコネもなく、冬の公園のベンチは子供の私にはきつかった。

 やむなく夜中一人で家に帰るはめに。

 でも今思えば、この時から私の自由への扉が開いた時なのかもしれない。