本日は身内で不幸があり、朝から出棺、火葬場へ・・・

親戚の「ドン」とも言える偉大な伯父さんが亡くなり、

最後のお別れのときに、不思議と今まで無かった感情がある事に気が付きました。

それは、涙と共に、僕に気づきをくれた感情でした。





人が死ぬとき、寂しから泣くのじゃなく

その人の可能性が消えるから、人は泣くんだ・・・




と、聞いたことがあります。

僕はこの意味が半分は理解できていました。




若くして亡くなる時、その人がこれから生きる可能性を惜しむように涙が出る。

でも、おじさんの様にもう、これから何かをするような年代の方が亡くなり、

涙だって出るのだから、その意味を知りたかった。






どんな可能性が消えたのか・・・

それは、おじさんに今まで怒られたり、厳しくされたり、微笑みかけてくれたり

そんな『試練』と『愛』をもらう可能性が途絶えたから涙が出るのだと気が付いた。

伯父さんは厳しい人でした。

生前、伯父さんには、何度となく冷たくされたり、厳しい事を言われたり、

時にはののしられるほどの言葉を浴びせられたことだってありました。

僕にとってそれは自分が成長するための試練でもありました。





この可能性が途絶えたことを涙と共に、悲しみの感情が気づかせてくれました。




火葬場で、今まさに焼かれてしまう瞬間は

今まで伯父さんと過ごした時間、厳しくされた事などを鮮明にありありと思い出しながら

涙が止まりませんでした。

その人と過ごした時間の中で、自分はどれだけ成長させてもらえたのだろう・・・

その感謝の気持ちと、今後伯父さんからはそれをいただけない、可能性が途絶えた事で、

涙があふれ出てきたようでした。






そして、約1時間半後に

骨だけになった伯父さんを、みんなで骨壺に入れた時

僕の親父が亡くなった時のことを思い出しました。

骨壺に入った伯父さんは、親父とまったく変わらない姿だったのです。

人間、死んで骨になれば、みんな一緒の姿になる

見た目は同じになるんですね。

死んだら灰になるだけ・・・

長渕剛さんの歌にそんな歌詞があった気がするが・・・

まさに、そう感じました。






ただ、僕の胸にはしっかりと伯父さんとの思い出は生きています。

それは親父とは違う思い出として残っています。






僕もいつか死ぬことを考えました。

死ぬまでに、僕はどれだけ周りの人間と関わり、試練を与え、気づきをプレゼントできるのだろう

とにかく確かな事は、僕もいつか死ぬということです。

そして、このブログを読んでいる方々もやがていなくなる時代がやってくるんですね。

そんな事を考えながら、命の燃焼について今という時間を精一杯生きるだけだと、

自分に言い聞かせました。