箸墓が円墳でなければ、出雲伝承で書かれていた説の一つは間違っていた事になります。
私は、現在、出雲伝承推進派ですが、全てその内容を正しい事としているわけではありません、一つずつ、自分なりに考えてみたいと思います。(もっとも伝承自体で分かりにくい場合は、著者に直接きいてみた方がいい、という事もあると思います、、、そのような機会があればそうしたいと思います)
が、今回の内容は、恐らく著者自身も、「そう(誰かから)聞いた」という内容だと思います。江戸時代に確認しに行くわけにもいきませんから、、、、。
で、本題に入ります。
コメントを頂いた「二等兵」様より、津久井清影の書いた「聖蹟圖志」に箸墓の絵がある、との事でした。
津久井清影で検索すると、別名、平塚ひょうさい、というそうです。1794-1875の人。1791年に刊行された「大和名所図会」より、少し後の人です。
=平塚飄斎 ひらつか-ひょうさい=
寛政6年閏(うるう)11月7日生まれ。京都町奉行所与力,のち旗本。嘉永(かえい)7年(1854)三条実万(さねつむ)らと山陵会をつくり,「陵墓一隅抄」をあらわし水戸の徳川斉昭(なりあき)に献呈。安政の大獄で一時,永蟄居(えいちっきょ)の処分をうける。明治8年2月13日死去。82歳。山城(京都府)出身。名は茂喬。字(あざな)は士梁。別名に津久井清影。
「聖蹟圖志」の画像は下記。(ちょっと画像が小さくてすみません)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1910951/14?viewMode
うー、確かに円墳ではないようです。
出雲伝承、意義あり!でしょうか?
しかし、以下、アジア航測の3Dと見比べてみます。
上の「聖蹟圖志」は、箸墓の円丘から、「獣道」までの絵である、という風にもみてとれます。
皆さん、どうでしょうかね?「獣道」から、後方部分を足した、なんて事、ありますかね?
つなぎ目のくびれ部がどうなっているかわかりませんが、下記の記事から拝借すると、獣道の両側の土の高さは5mくらいかな、と勝手に予想してみます。
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html
<前方後円墳」では前方部と後円部を繋ぐ隆起が、「隆起斜道」と名づけられています。前方部からこの隆起斜道を通って、首長の遺体を後円部に埋葬する葬送儀礼をおこなったと考えられています。これは、近年多く発掘されるようになった、弥生墳丘墓の墓道の形態から発展させた推論のようです。千葉県の国立歴史民俗博物館には、この「隆起墓道」を再現した模型も作られていますし、都出比呂志氏による概念図も普及しています。
しかし、箸墓に関するかぎり、この「隆起斜道」を使って葬送儀礼をおこなったとするには、すこし無理があるように思います。下図のように、後円部の頂上に埋葬するためには、「隆起斜道」の最低部からは、約20度の傾斜面を標高差15mも登る必要があるのです。(このCGの1段は1mです)葬送儀礼のための仕様としては、傾斜がきつく、適切ではないように思えます。
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クビレ部に比して高い前方部 > |