葛城の南郷遺跡(御所市)については、葛城ソツヒコ系の葛城氏の勢力圏とし、高宮はソツヒコの娘・イワノヒメの歌「葛城高宮我家の辺」(古事記仁徳天皇段)より、本拠地とする。
・葛城には5つの政治集団がいた。
・その墓は馬見古墳群である。(4世紀前半・新山古墳が最初。箸墓のような出現期の古墳はなく、一時期遅れて古墳が作られる。次いで4世紀中葉~後半にかけて、巣山古墳などは大和王権に匹敵する規模になる=葛城の政治集団が王権で重要な地位を占めるようになる。4世紀後半~5世紀に最大級の室宮山古墳。新木山古墳を最後にこの地方には大型古墳が作られなくなる=雄略天皇の攻撃。)
・また、氏は5グループある馬見古墳群うちの北葛城を、ソツヒコ系ではない葛城国造系の墓かも?
・倭国には「オミ」と称する言葉があり、(仕える者の意。古くは神に対するもの。次いで君に対するもの)。それがやがて姓として使用されるようになるが、その表記は「使主」p157
→上の記述を参考にすると、和邇氏のヒフレ使主が最も古い例、という事になるでしょうか。古くは神に対して使われていた、とするなら、神(カミ・三輪氏)を主君として和邇氏が臣従した、という感じでしょうか。
次いで君に対するもの、という事ですが、君とは、アメタリシヒコの「オオキミ」につながりますよね。また、伽耶の高霊の王号が「君」であるのも気になる所です。高霊は561年頃滅びていますが、その関連勢力が「アメタリシヒコ」であったとしたら、その氏族は「オオキミ」という王号を使う事にした?
蘇我氏の原型は、葛城氏(そつひこ系)だという人もいれば、母方は葛城国造系だが父系は不明とするもの、そして私の推論の一つに「小伽耶」(蘇伽耶・小自国)王族、というものもあります。この王族は金管伽耶が541に滅びたタイミングで倭国に亡命しているので、稲目とする事は不可能ではありません。稲目が葛城国造りの娘(葛城山田端子の妹とか)と婚姻した可能性はあります。そこで生まれた馬子(用明天皇)は、同族の飯古郎女を妃の一人にした、、、。小自国は南伽耶で大きくはなく、いつも金管伽耶や高霊に反発または従属させられていました。もし、倭国にきて、天下をとってしまったのなら、「オオキミ」を名乗ったかも・・・・?ま、この推論はおいておいて。関連ブログは下記。
http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12071025505.html
で上記の本では、
・蘇我氏が韓の地や高句麗から来た移住民とは考えにくい
→という結論になっています。本拠は奈良の曽我としていますが、その前身は、とかいつそこに、とは書かれていませんでした。
・職能集団であった「人制」から「部民制」へは系譜的につながりがあると考えられ、雄略朝にその記述を垣間見れる
・職掌を名に負う名負いの氏は、部民制に付随して生まれたものだろう。この部の制度は、従来の研究によれば朝鮮諸国の部、特に百済の部制に影響されて成立したと指摘されるp34
・健部たけるべ(軍事的職務に従事する部)・丈部はせつかべ(王宮での警備などをする軍事的部か)
・5世紀の人制、6世紀の部民制、律令下の品部・雑戸制(軍事関係の生産集団)
・物部のような訓読としての名負いの氏は、欽明朝にはあったようなので、その氏名の成立は6世紀前半
(欽明紀引用の百済本紀 河内直 津守連より)
・これまでの研究により、物部氏は部民制の成立とともに、氏が成立したと指摘されている(篠川賢『物部の研究』)
・各地に部民の物部が存在することから、物部は地域を限らず広範囲に設定されていた事がわかる。この設定が部民制の成立とともに実地されたのか、既に人制の段階でその前提となる制度があったのかは残された資料からは不明
・物部氏は、基本的には「物」を貢納する
・大伴氏は、王権に仕奉する「人(トモ)」を供給する支族。
・両氏とも、人制から部民制への転換期に際し、部民制の成立とともに物部・大伴氏として誕生した公算が高い
とまあ、いろいろ取り上げてみましたが、自分の興味のある所だけなので、皆さんも実際に読んでみた方がいいと思います。。。
下記の図のように。連系は盆地東南部、臣系は西側に多い事がわかります。本に載っていたのと似たような図がnet上にあったので参考に張りつけてみました。http://ameblo.jp/taishi6764/entry-12089825159.html