後漢書は400年代の成立。

 

そこには、和が南朝に朝貢した情報が盛り込まれた、という説がある。

確かに、280年頃にかかれた魏書とは、異なる事が書いてある。

 

 

<朝鮮王準為衛満所破 乃将其餘衆數千人走入海攻馬韓破之自立為韓王 準後絶滅 馬韓人復自立為辰王
「初め、朝鮮王準が衛満の破る所と為り、乃ち、その余衆数千人を将ひ、走りて海に入り馬韓を攻む。これを破り、自立して韓王と為る。準の後は絶滅す。馬韓人はまた自立して辰王と為る。

「初め、朝鮮王の準が衛満に破れて、その残余の人々数千人を率いて海に逃れ、馬韓を攻めてこれを破り、自立して韓王になった。準の後裔は絶滅したが、馬韓人はまた自立して辰王となった。」

 范曄(後漢書)の理解では、「燕人衛満に破れた朝鮮王の(箕)準は、南に逃れ韓王になったが、その後裔はいつの間にか絶滅してしまった。韓には王が存在しなくなったため、韓はいにしえの辰国を復活し、諸国が共立して辰王を立てて、月支国に都を置いた。常に馬韓人が王になる。」ということのようです。実際はまったく異なり、韓を絶滅させたのは魏の楽浪、帯方郡、正始七年のことなのですが、このあたりは魏志韓伝と読み比べていただくしかない。

 

<魏書馬韓伝

秦が天下を統一するに及んで、蒙恬に遼東に至る長城を築かせた。その時、朝鮮王の否が立っていたが、秦の襲撃を恐れ、秦に略服して属すも、入朝は拒んだ。否が死に、その子の準が立った。二十余年の後、「陳勝と呉項の乱」が起き、天下は戦乱となる。燕、斉、趙の民は辛苦から徐々に準(朝鮮)に逃れて行った。準はこれを西方に置いた
漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は浿水と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の浿水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢兵が十道に至り、宿衛に入ることを求めている」と準に告げさせ、帰還した準を攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。その左右の王族を率いて海に逃れ、韓地に居を構え、韓王を自称した。
注記② 魏略に曰く、その子や親が国に留まり、韓氏の姓を犯す(易姓革命)準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来しなかった。
その後、絶滅したが、今なお韓人は彼を奉じて祭祀する者がいる。漢代は楽浪郡に属し、四季に入朝してきた。
注記③ 魏略に曰く、初め右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めたが用いられず、東の辰国に亡命した、そのとき彼に随行して国を出た住民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに往来しなかった。>

 

<魏書馬韓伝
王莽の地皇年間(20年-22年)、廉斯(れんし=地名)の鑡(さく)は辰韓の右渠帥となり、楽浪郡の土地が肥沃で、人民は豊かで安楽に暮らしていると聞き、逃亡して降伏することを望んだ。(そして、鑡が)その邑落を出ると、田中で雀を追い払っている一人の男と出会ったが、言葉が韓人とは違っていた。彼に問うと、男が言うには「我らは漢人で、名を戸来と言い、我らは仲間の千五百人と材木の伐採しているところを韓に襲われ、全員が断髪され、奴隷にされた。もう三年にもなるかな」と応えた 鑡は「私は今から漢の楽浪郡に降るところだが、おまえは行きたくないか?」と言った。戸来は「よし。(行こう)」と応えた。

鑡は戸来を連れて辰韓を出て、含資県に詣でると、県は郡に伝え、郡は鑡を通訳として、芩中から大船に乗って辰韓に入り、戸来を迎え受けた。とともに降った仲間の千人を奪還したが、すでに残り五百人は死んでいた。鑡は辰韓に諭して言った。「汝ら五百人を還せ。もし返還しなければ、楽浪郡は万余の兵を船に乗せて、汝を攻撃しに来るだろう」

辰韓は「五百人はすでに死に、我は人数に値する弁償をするしかない」と言った。

辰韓は一万五千人、弁韓は布を一万五千匹、それぞれが提出した。鑡は値を徴収して郡に還る。郡は鑡の功義を表し、冠幘(かんさく=帽子の名)と田と家宅を賜う。子孫は数世、安帝の延光四年(125年)に至って、故事に対して再び除を受ける。

 

 

建武二十年 韓人廉斯人蘇馬諟等詣楽浪貢献 光武封蘇馬諟為韓廉斯邑君 使属楽浪郡 四時朝謁 霊帝末韓濊並盛郡縣不能制 百姓苦亂多流亡入韓者
「建武二十年、韓人、廉斯人の蘇馬諟等が楽浪に詣り、貢ぎ献じた。光武は蘇馬諟を封じて韓廉斯邑君と為し、楽浪郡に属せしむ。四時朝謁す。霊帝末、韓濊並び盛んにして、郡県は制する能はず。百姓は乱に苦しみ、流亡して漢に入る者多し。」

「建武二十年、韓人で廉斯の人、蘇馬諟等が楽浪郡に来て貢を献じた。光武帝は蘇馬諟を韓廉斯邑君と為し、楽浪郡に所属させた。季節毎に朝謁している。霊帝の末、韓、濊がともに勢いが強く、郡や縣はこれを制御することが出来なかった。住民は乱に苦しみ、さまよい逃れて韓に入る者が多かった。」

 後漢、建武二十年(44)の蘇馬諟に関する記述は魏志のどこにもみられません。倭伝の「倭国大乱」などの記述と同じように、先行後漢書からの引用と思われます。廉斯邑君という官位から推定したのか、廉斯は集落名だという注が入っています。
 魏志の裴松之注には、魏略逸文として、王莽の地皇年間(20~23)に、廉斯鑡という辰韓の右渠帥が楽浪郡に亡命し、辰韓に誘拐された漢人を取り戻したことが記されています。廉斯鑡も廉斯という土地の鑡を表したのかもしれない。

 

注)廉斯鑡(れんしさく、염사치)は、辰韓の右渠帥。
廉斯鑡は、楽浪郡が肥沃な土地であり、経済が豊かという話を聞きつけ、楽浪郡に帰化に赴く途中、辰韓の奴隷となっていた漢人戸来に遭遇し、戸来に帰順する。その後、楽浪郡の軍勢を借りて辰韓に行き、1000余人の漢人奴隷を解放させ、死んだ奴隷500人に対する対価として辰韓人15000人と弁韓布15000匹を楽浪郡に収める[1]。