私は仕事で、小学生の子どもたちと関わっています。
先日のこと。
朝、クラスに入りたがらない子がいました。
その子は、
たくさんの荷物を順序良く身体にぶら下げ、
防寒対策も整ったきちんとした格好のまま、
靴箱でピタリと足が止まっていました。
私が声をかけても反応は薄く、
ただずっと靴箱を見つめていました。
なんて声をかけるのが、この子にとって一番なんだろう、、、
考えながら話していると、
だんだん他の先生も集まってきて
のちに、その子は他の先生方に促されて、半ば引きずられるようにしてクラスに入ってきました。
あ〜、そんな強引に入れるのはどうだろう。
まずいんじゃないかな、、、。
私はそう思っていたのですが、
その子は、クラスに入ってしばらくすると
大きく元気な声で周りと喋ったり、ふざけて遊んでいました。
先ほどの静かな子とはまるで別人。
あれ??
どっちが本当のあの子なんだろう?
私はふとそう思ったのですが、
その後、頭の中であわてて訂正しました。
ああ、そうか。
クラスに入れなかったあの子も
クラスで楽しんでいるあの子も
紛れもなく、どちらもあの子自身なんだ。
◆
かつて、私が自己理解の講座を受講した際にあったことを思い出しました。
『誰かのサポートすることを好きな自分と、誰かのサポートより自分にかけることが好きな自分がいる。どっちが本当の私なのでしょう?』
私がこう質問した時の
講師の方の答えが、明解でした。
『どっちもあなた自身ですよ。その時の状況によって、違う面が出ているだけです。だからその時の状況をよく思い出して下さい。』
あの時の、
そりゃそうだわ、、、感を鮮明に思い出しました。
私達はつい、人の表面の行動を見て、人を型にはめて捉えようとしがち。
“その行動は一貫性のあるもの”という前提で。
その方が、
スッキリしてわかりやすいから。
でも、人間はもっと奥深くて、多面的。
枠にはめるのは簡単だけど、
枠にはめた分、見えない部分をつくってしまう。
そして、それが苦しみの元になる。
私の場合、
・自分を磨いて、一人前になりたい
・自分を成長させることが好き
・争いは好まず、周りといい関係を維持したい
・人の成長を見るのが好き
・自分の失敗を伝え、誰かの糧にしてほしいと思う
・人の元気な顔が見たい
などの気持ちが組み合わさって、
人をサポートをする時もあれば、自分の成長に集中する時もある。
なんとなく、『自分の成長』よりも『人のサポート』をしてる方が良さそうだと思い、自己認識として初めから『人のサポート』だけを採用すると、なんか違う、、、となる。
そもそも行動に一貫性がないのは、人間として当たり前のことだし、行動に良し悪しなんてない。
どっちの自分もあっていい。
◆
あの子を『クラスで楽しんでいる子』
とだけ認識すると、
クラスに入れなかったあの子の存在をナシにしてしまう。
クラスに入れなかったあの子は
あの時、何を感じていたのだろう?
あの子の心のなかで
確実に、何か引っかかっていたと思う。
『クラスに入らない』
この行動自体を悪としてしまえば、その時の気持ちをまっすぐ見つめることは難しいかもしれない。
『結局、クラスに入って、溶け込んでるからいいじゃない』
そう思って、(おそらく消化できていないであろう)あの時間をなかったことにするのもそう。
『蒸し返す必要はない』などと、振り返ることをしなければ、その時の気持ちは消化できないまま行き場を失い、また違う形で現れるかもしれない。
クラスに入ろうと入るまいと、
それはどっちでもいい。
どっちでもいいから、
どっちを選ぶ自分もアリにして、
その時の自分の気持ち、感じたことを大事な自分のために認知していて欲しい。
クラスに入りたくないその気持ちも。
クラスに入って、楽しんでる(ように見える)その気持ちも。
どちらも対等に見つめたら、
心からの安らぎとともに、
本当の自分の望みを見つけられるんじゃないかな。
語彙力や経験が少ない子どもには、とくに簡単ではないことだから
大人の私としては、行動だけをみて評価するのではなく、その時の気持ちを共に見つめられるような、そういうサポートをしてあげたいよな、、
そう改めて思ったのでした。
次に同じ場面に出会ったら、今回よりはいい声かけができる気がする。
気負いしすぎないで、広い心の私であろう。
その子を取り巻く環境がどうであれ、
その子はその子のベストな人生を生きている。
全てを糧にできる、という絶大な信頼とともに。
別の子にもらった折り紙のハート♡
好きな色を聞かれて、『オレンジ色』と私が答えたことを覚えてくれていた。私のために作ろうと、あえてオレンジ色を選んで折ってくれたのかな。その気持ちが何より嬉しいのです。