私は仕事で、小学生の子どもたちと関わっています。

 

 

 

先日のこと。

 

 

 

朝、クラスに入りたがらない子がいました。

 

 

 

その子は、

たくさんの荷物を順序良く身体にぶら下げ、

防寒対策も整ったきちんとした格好のまま、

靴箱でピタリと足が止まっていました。

 

 

 

私が声をかけても反応は薄く、

ただずっと靴箱を見つめていました。

 

 

 

なんて声をかけるのが、この子にとって一番なんだろう、、、

 

 

 

考えながら話していると、

だんだん他の先生も集まってきて

 

 

 

のちに、その子は他の先生方に促されて、半ば引きずられるようにしてクラスに入ってきました。

 

 

 

あ〜、そんな強引に入れるのはどうだろう。

まずいんじゃないかな、、、。

 

 

 

私はそう思っていたのですが、

 

 

 

 

その子は、クラスに入ってしばらくすると

大きく元気な声で周りと喋ったり、ふざけて遊んでいました。

先ほどの静かな子とはまるで別人。

 

 

 

 

あれ?? 

どっちが本当のあの子なんだろう?

 

 

 

 

私はふとそう思ったのですが、

その後、頭の中であわてて訂正しました。

 

 

 

 

ああ、そうか。

 

 

クラスに入れなかったあの子も

クラスで楽しんでいるあの子も

 

 

紛れもなく、どちらもあの子自身なんだ。

 

 

 

 

 

 

かつて、私が自己理解の講座を受講した際にあったことを思い出しました。

 

 

 

 

かのサポートすることを好きな自分と、誰かのサポートより自分にかけることが好きな自分がいる。どっちが本当の私なのでしょう?』

 

 

 

私がこう質問した時の

講師の方の答えが、明解でした。

 

 

 

 

『どっちもあなた自身ですよ。その時の状況によって、違う面が出ているだけです。だからその時の状況をよく思い出して下さい。』

 

 

 

 

あの時の、

そりゃそうだわ、、、感を鮮明に思い出しました。

 

 

 

 

 

私達はつい、人の表面の行動を見て、人を型にはめて捉えようとしがち。

 

 

 

“その行動は一貫性のあるもの”という前提で。

 

 

 

 

その方が、

スッキリしてわかりやすいから。

 

 

 

 

でも、人間はもっと奥深くて、多面的。

 

 

 

 

枠にはめるのは簡単だけど、

枠にはめた分、見えない部分をつくってしまう。

そして、それが苦しみの元になる。

 

 

 

 

私の場合、

・自分を磨いて、一人前になりたい

・自分を成長させることが好き

・争いは好まず、周りといい関係を維持したい

・人の成長を見るのが好き

・自分の失敗を伝え、誰かの糧にしてほしいと思う

・人の元気な顔が見たい

 

 

 

 

などの気持ちが組み合わさって、

人をサポートをする時もあれば、自分の成長に集中する時もある。

 

 

 

 

なんとなく、『自分の成長』よりも『人のサポート』をしてる方が良さそうだと思い、自己認識として初めから『人のサポート』だけを採用すると、なんか違う、、、となる。

 

 

 

 

そもそも行動に一貫性がないのは、人間として当たり前のことだし、行動に良し悪しなんてない。

どっちの自分もあっていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

あの子を『クラスで楽しんでいる子』

 

 

とだけ認識すると、

クラスに入れなかったあの子の存在をナシにしてしまう。

 

  

 

 

 

クラスに入れなかったあの子は

あの時、何を感じていたのだろう?

 

 

あの子の心のなかで

確実に、何か引っかかっていたと思う。

 

 

 

 

 

『クラスに入らない』

 

この行動自体を悪としてしまえば、その時の気持ちをまっすぐ見つめることは難しいかもしれない。

 

 

 

 

 

『結局、クラスに入って、溶け込んでるからいいじゃない』

 

そう思って、(おそらく消化できていないであろう)あの時間をなかったことにするのもそう。

『蒸し返す必要はない』などと、振り返ることをしなければ、その時の気持ちは消化できないまま行き場を失い、また違う形で現れるかもしれない。

 

 

 

 

 

クラスに入ろうと入るまいと、

それはどっちでもいい。

 

 

 

 

どっちでもいいから、

 

 

 

 

どっちを選ぶ自分もアリにして、

その時の自分の気持ち、感じたことを大事な自分のために認知していて欲しい。

 

 

 

 

クラスに入りたくないその気持ちも。

クラスに入って、楽しんでる(ように見える)その気持ちも。

 

 

 

 

どちらも対等に見つめたら、

心からの安らぎとともに、

本当の自分の望みを見つけられるんじゃないかな。

 

 

 

語彙力や経験が少ない子どもには、とくに簡単ではないことだから

 

 

 

大人の私としては、行動だけをみて評価するのではなく、その時の気持ちを共に見つめられるような、そういうサポートをしてあげたいよな、、

 

 

 

そう改めて思ったのでした。

 

 

 

 

次に同じ場面に出会ったら、今回よりはいい声かけができる気がする。

気負いしすぎないで、広い心の私であろう。

 

 

 

 

 

その子を取り巻く環境がどうであれ、

その子はその子のベストな人生を生きている。

全てを糧にできる、という絶大な信頼とともに。

 

 

 

 

別の子にもらった折り紙のハート♡

 

好きな色を聞かれて、『オレンジ色』と私が答えたことを覚えてくれていた。私のために作ろうと、あえてオレンジ色を選んで折ってくれたのかな。その気持ちが何より嬉しいのです。