かねてから探偵小説に興味を持っていた。
私が好きな探偵作家は木々高太郎だ。春陽堂文庫の1冊を何度も読み返した。全集も買い揃えたぐらいだ。
木々と言えばパブロフに師事した大脳生理学者でノーベル賞級の研究者林たかし(字が変換できない)という慶大教授でもある。探偵作家としては松本清張の師匠である。彼の目指した推理小説(木々の命名)に芸術性を唱えたが、それが松本に継承されていることは明白だ。
その意味で三田派耽美主義の一翼を担い、私小説に鉄槌を加えたあるいは疑義を呈した異色作家だろう。
「純文学変質説論争を巡って」という論説を書いています。
もともと明治時代に矢野龍渓という方がいました。この人は慶應義塾で福澤諭吉に直接学んだ人です。初めジャーナリスムに身を置いていたのですが、『浮城物語』という冒険小説を発表します。森鴎外や徳富蘇峯は絶賛します。しかし、石橋忍月や内田魯庵なんかは人間が描けていないとか言って否定するわけです。文学史的には政治小説と分類されます。しかし、私は政治批判もあるんでしょうが文学としても優れていると思います。最初の純文学と大衆文学の論争だったと思います。その後、賀川豊彦や国枝史郎、島田清次郎など文壇では傍流視されたものには、私小説では取り込めなかったものがあるように考えられます。プレタリア文学探偵小説などもそうでしょう。

水上勉『雁の寺』における純文学変質説論争は浮城物語論争まで遡及させねばならないのではないかと考えます。

純文学と大衆文学を総合するという意味においてです。

ある勉強会でタイトルの本を課題本にして討論を行った。

復讐するは我にありの我とは聖書によると神であるという。
しかし、私にとっては榎津という主人公自身ではないかと思う。この物語は実際の事件を基に書かれたものである。しかし、実際のモデルとは違った点がある。
榎津がクリスチャンの家に育ち名前をぺテロからとり巌とした。これは実際のモデルにはそんなことはない。また、実際はギャンブル狂でその借金のために犯行に及んだ。しかし、本にはギャンブルのことは出てこない。

これは、作者佐木隆三自身の投影があるのではないか?

かつて嘉村礒多という極北の私小説作家がいた。彼の生き方は凄まじく、自己との闘いだっただろう。しかし、どうしてもこういうふうにしか生きられなかったということが書かれている。太宰は嘉村を偉い人だと思いますと書いた。

詐欺というものを一種の才能を要するものだ。遣い方は間違っているかもしれないが、宿命の血だろう。

ここにも嘉村の小説同様宗教的祈りがある。