没後10年 村瀬明道尼命日 | 岳紫のブログ

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没後10年 村瀬明道尼命日

 きょう7月19日は、月心寺元住職村瀬明道尼の命日(平成25年[2013]7月19日)で,没後10年である。ご冥福を祈ります。

 「愛知と岐阜との県境を流れている木曽川の南岸が、私の生まれた在所です。一般の在俗の家の児として、私には九人もの兄姉弟妹がありました。」(大正13年[1924]2月2日生まれ)

 明道尼が9歳まで過した生家は、一宮市北方町北方字中宝江、木曽川堤防(御囲堤)に面した場所で、当時、堤防下の河川敷一帯に名鉄尾西線木曽川港駅(大正7年[1918]貨物専用駅として開設)があった。

 生家の父清一氏は、上流国鉄(JR)木曽川鉄橋すぐ上流で、水車による精米・精麦を業として、自宅(中宝江)で近隣近郊からの取次をされていた。それ故、「水車屋の清ちゃん」と呼ばれていた。

 生家前のすぐ左手堤防馬踏を線路が横断し、貨物車が砂利・栗石、時には上流から船で運ばれてきた木材・薪炭などが運ばれた。

左前方には伊吹山、右手には金華山(稲葉山・岐阜市)が望める場所である。現在、当時の生家はない。

 また、堤防は治水工事でかさ上げと拡幅され、尾西線木曽川港駅施設があった河川敷(遊水地帯)一帯もグランドなど平面整地され、大きく変貌している。

 

 

 

 

 「私は実は十九年前(昭和三十八年[1963]七月三十日午前十時四十五分)に交通事故に遭って、右手右足の自由が利きません。」と著書「月心寺での料理」(1983・文化出版局)に記されているように、不自由な体ではあったが、天下一の「ごま豆腐」をはじめ精進料理を、多くの人が味わうと月心寺へお参りに訪れられた。

 平成23年[2011]5月19日横浜市の寺院での講演に赴く途中、二度目の交通事故に遭われ、右手右足骨折と重篤となり、生貝淑子さん夫婦(千葉県)が馳せつけて責任をもって入院・手術などを手配された。

「生貝さんが馳せつけて入院手術を急行して下さっていなかったら、五月十九日が私の僊化の日となったであろう。」[2012]と、生貝さん所蔵の原稿用紙に書き記されてある。

 退院後は、生貝さんのお世話で、千葉県の瑞雲居で療養、尼僧として悔いのない生活を送られた。

 平成25年[2013]7月19日辞世の句を残して、生涯の幕を下ろされた。

 

 21日(最終日は午前中)まで、一宮市庁舎14階の市民ギャラリーで「生誕100年・没後10年記念 月心寺元住職村瀬明道尼展~最晩年の瑞雲居」を開催している。

 奇しくも命日の今日、旧知の川口晃司さんが、明道尼の色紙を持ってきて下さった。

 

 

 衆議院議員長坂康正先生(愛知9区)と中野正康一宮市長に観覧の栄をいただいている。(岳紫のブログ3895)