天才的なプレーはあのペレさえ認めていた。残念ながら、ジョージ・ベストの北アイルランドは彼の全盛期にはW杯への出場はできなかった。もっぱらヨーロッパで活躍していた彼がアメリカのロスアンゼルス・アズテックにやってきた。なぜか33番を付けてプレーしていた。

 私が一番好きなサッカー選手である。全盛期に在籍していたのはマンチェスター・ユナイテッド。あのボビー・チャールトンが主将だった頃の。当時は音楽界はビートルズが世界を席巻してい時代に重なる。5人目のビートルズともいわれた。ハンサムでプレーもクールで、大人だけでなく子どもにも人気があった。彼を見つめる輝く眼差し子どもの写真が雑誌にのり、それは私の宝物だった。当時のユニフォームは襟付きのものが主流だったが、赤い悪魔の別名を持つマンチェスター・ユナイテッドの赤のユニフォームが一番似合っていた。長髪にしてヒゲを伸ばしてプレーする姿は彼が始めた。YOUTUBEで当時のベストのプレーが見ることができる一度みなさんに観てもらいたい。フェイントでDFを抜き去り、最後にGKまで抜いてゴールを決めるのは彼しか出ないプレーだった。GKまで抜いてゴールを決めるのをボビー・チャールトンはたしなめていた。当時はイングランドの1部リーグのサッカーといえば、ロングボールをゴール前に放り込みヘディングでゴールを狙う荒っぽいサッカーだった。体をぶつけ、深いタックルで相手をなぎ倒す。そんなプレーを雨の中90分やり続ける。そんなサッカーをやっていれば、30歳頃には無事でいられない。多くのものが体をぼろぼろなりながら、足を引きずりフィールドを去っていくのである。

 そんな中で後世に語り継がれるプレーヤーはテクニシャンのFWが多い。伝説のジミー・グリーブスや古典になるがサースタンレー・マシューズ。デニス・ロー、そしてジョージ・ベスト。この時代のサッカーのDFは体がでかい、荒っぽいものが多かった。その中でテクニックで相手を抜いていく様は闘牛士が猛牛をかわすような興奮させるようなものがあった。当時はあまり映像は出ていないが、サッカーの雑誌はベストの写真が毎回のっていた。それはプレーの格好良さとその才能に憧れたからだろう。

 彼がいた北アイルランドは、当時IRAが独立を目指して爆弾闘争していた時代で、イングランドとは微妙な関係にあった。それが彼の人生を左右したのかもしれない。酒と女好きで、その言葉は名言として残っているので関心がある人は調べてみると面白い。

 彼はラス・ベガスで結婚式を挙げた。その時、結婚もギャンブルだと言ったとか。彼の将来を邪魔したのはアルコールである。それが原因で肝硬変になり、移植までしたが上手くいかなかった。

 ロスアンゼルス・アズテックの背番号は33だった。彼が現役を引退するのが、7年後の38歳のとき。私もいろいろなチームでサッカーをやっていた時代。やがて自分のチームを持った34歳の時、33番のユニフォームを作り最後のシーズンとした。プレーは遥かに及ばないが、その憧れと敬意を表したのだ。

 37歳のペレの続きです。日本代表対ニューヨーク・コスモスの試合にはもうひとり日本代表を引退する釜本選手のがいた。1968年メキシコオリンピックでサッカー日本代表はメキシコ代表を破り、銅メダルを獲得した。このオリンピックで釜本選手は得点王も獲得している。表彰式のどさくさに紛れ、白紙にサインをねだられ、それが契約書であると当時のコーチのデッドマール・クラマーが見破り、投げ捨てたのは有名な話しである。

 銅メダルの効果で日本リーグは人気がではじめた。私は1976年元旦の天皇杯決勝の古河電工対ヤンマーの観に行っている。満員であった。その試合は古川電工が4-1で勝つのであるが、釜本選手のプレーのドリブルには驚いた。ドリブルには2種類ある。カウンターで相手DFの背後を突破するときには足の甲を使って弾くようにする。またDFが近いペンルティエリアになると足の甲で押したり、インサイドやアウトサイドを使う。しかし、釜本選手は違った。長い距離をドリブルする時に音が出ないのである。柔らかいタッチでドリブルしていくのだ。当時は4-3-3が主流だから、ウィングが左右に配置される。二人共ボールをドルブルするときにはパーン、パーンというような音がした。釜本選手のドリブルを観たので、余計そう感じたのかもしれない。

 それは膝から下の柔軟性の賜物だと思っている。体格に恵まれ、へディングも得意で、右45度からゴールするのを得意としていた。日本代表として76試合にで75得点をしている。同時代の西ドイツ代表(当時は東ドイツも存在していた)の爆撃機と言われたゲルト・ミューラーの得点率と変わらないのである。ミューラーはきれいなゴールよりとにかく泥臭く、点を取る印象がある。釜本選手とはタイプがことなる。

 W杯でみてみたかった選手の一人である。もっとも当時はW杯はアマチュアの参加は認められていなかった。W杯に出ればアマチュア資格は剥奪された。日本のオリンピック偏重もあってW杯の出場は遅れたのである。また、釜本選手は急性肝炎にかかり、入院している。日本の事情と本人の病気のせいでW杯出場はかなわなかった。当時も韓国とライバル関係にあり、釜本選手が日本代表時代に1試合勝っただけで、敗戦の方が断然多い。互角に戦えるようになるのは2000年以降になるのである。

 ニューヨーク・コスモスとの試合はペレ引退試合での興行であり、ペレの盛大な引退セレモニーが行われた。1984年釜本選手の引退試合にはペレがわざわざ参加している。釜本選手もこれには驚いたと感想を述べている。

 彼が今の日本代表にいたらどうなるだろうか。これはジーコが日本代表の監督の時に久保選手がW杯ドイツ大会に怪我で行けなかった。あの時久保選手がいたら、どうなっていただろうか。夢を見るのは楽しい。

 

 

 

 旧国立競技場は超満員の観客だった。ペレと日本を代表するFWの釜本の引退試合だったのである。当時サッカー選手は30を過ぎると体がボロボロになってフィールド(昔はピッチとは言わなかった)を去った。ペレの37歳は異例である。まさに天才だった。当時のブラジルは最強で、その選手は各々個性が強かった。その中でも抜きんでた存在であった。

 そのペレが引退する試合に日本代表が対戦することになった。右サイドは大仁選手が守り、それに対峙したのがペレできりきり舞いにされた。全く成すすべがなかった。しかし、観客が湧いたのは、そのプレーではなかった。ペレがHBの位置にまで下がってボールを受け、それをFWにパスをする。正確なパスが味方FWの足元に通る度に観客が歓声を上げたのである。ため息に近い声で「おおー!、おおー!」満員の客席のあちらこちらか聞こえるのである。多くの試合を観戦したが、パスで観客を沸かしたのはペレだけだった。マラドーナと比較されるが、同時代の選手ではないし、タイプが違う。体の使い方も違うので、どちらかとは言えない。決めるのは受けたインパクトの差であり、プレーの好みである。私の世代なら断然ペレである。

 30歳ころのペレの特集がNHKで放送された。得点するの数々のプレーや相手DFを抜くペレ独特のフェイントが放送された。そのフェイントの中に、相手を壁に見立てのそのDFのスネに当て、跳ね返りをコントロールして抜くというものがあった。おそらくDFの軸足つまり体重はかかった方のスネを狙ったのであろう。17歳のサッカー選手である私は実際マネてやったことあったが、相手にボールを向けて蹴っていく、その取られるかもしれない恐怖には勝てなかったし、その強弱が相当難しかった。ついにものにすることはできなっかた。天才的なひらめきと類まれなるバランスや遊び心がその理由だと思うのだが。頭で分かっても、体は反応できなかった。これも才能であろう。

 当時は多くの国ではフォーメンションが4-3-3か4-4-2のシステムを取っていた。そこにはCHがいてゲームメーカーの役割をした、FWは前線に張り付き、守備をすることはなかった。DFは体がゴツク、ボールのリフティングを10回もできないような背の高い者が主だった。今から見れば随分と間延びしたチーム同士の戦いのように思えるだろう。FWはFWらしく、HBはHBらしく、DFはDFらしく。個人の個性が光る時代だった。その当時の選手たちの輝きは今も心にのこる。多くの者は、すでにこの世にいないが、、、。

 昨日は日本対中国の試合前の国歌へのブーイングについても触れたが、今日のニュースでフラン代表監督のデシャンも同様なことを言っていた。ヨーロッパはUEFAネーションズリーグの真っ最中である。イタリアのホームゲームだった。そこで試合開始前のフランスの国歌斉唱時にイタリアの観客からのブーイングが起こったらしい。

デシャンはこう言っている「今は残念ながら国歌へブーイングすることが流行っている。拍手を送り始めてくれた選手たちのことは気に入っているけどね。しかし、なぜこんなことが起こるのか理解できないし、私はサッカー界に限らず、こういった世の中はひどいと思う」と。

 試合前の興奮もあり、自国のチームの鼓舞するために相手の国歌にブーイングするのだろうが、相手の国歌や選手に対して尊敬はすべきである。フランスとイタリアに政治的問題は発生していないので、単なるふざけているのであろうか。デシャンは選手としてイタリアのリーグでプレーした経験があるという。フランス選手の何人かは現在でもイタリアのリーグでプレーしている。デシャンはかつて名門ユベントスに5年在籍したことがある。拍手までとは言わないが、自国の国歌の時には最低でも沈黙してくれるのがせめてもの礼儀であると思ったのかもしれない。

 サッカーはゲームなのである。遊びなのだ。90分間戦い終えれば、ゲームセットなのだ。勝敗がどちらかについても、もう終わったことだ。お互いの健闘を祝し、後悔は自分の中にしまっておけばよい。歓喜も同様で、相手に誇るものでもない。そういったことが理解できずにいれば、それはゲームではなく戦争である。相手を挑発し、罵り、勝利を相手に誇る。それこそ敗者の行いである。

 ひどい世の中をよくしよう。日本代表の試合の後で、観客が自分たちのごみをきれいにしてスタジアムを後にする。その姿こそ、その一歩であり、希望であると思う。厦門での日本人観客がごみを片付ける姿を見て中国人の観客はどう思ったろうか。私は美しいと思うし、その場所にいたなら同じことをやったろう。自分のために。

 森保監督もブーイングのことを少し触れてほしかった。いやだなの一言でもよい。

 試合は3対1で日本の勝ちであった。

カウンターで1点を取られた。中国の4番がフリーで上がり、自分を犠牲して味方にパスをしたものを決められた。2対1となり1点差になったが、後半1点を入れ勝つことができた。しかし、右サイドに比べ左サイドが機能していなかった。久保選手と伊藤選手が良かったくらいで、攻撃はなんともまどろっこしいものだった。相手が引いて守るには人数を掛けて攻撃の道筋を見つけるべきなのだが、特に工夫が左サイドに無かった。今回は南の選手はいつもと同じシャドウの位置であったが、左サイドの中村選手との相性が良くなかったか、本当に影になってしまった。丁寧に相手のゴール近くまでボールを繋ぐのを日本チームはやっている。しかし、時にはミドルシュートやロングシュートを狙ってもらいたいものだ。全体のバランスは分かるが、そのために攻撃のスピードを犠牲にしているのも何度かあった。チャンスがあったらゴールを狙い、そうでなければパスを出しながらチャンスを待つ。同じやり方だと相手も研究してくるし、対応もしやすくなる。臨機応変にやってもいい。

 今回は福建省の厦門である。中国でいえば地方都市である。ビン南語を話す。おそらく北京の人は会話を聞いても分からないはずと言われている。漢字の発音が違うのである。対岸にある台湾人なら同じ系統の方言であるので理解できる。この福建省は平野が少なく、東南アジアや日本などに交易で活路を求めた。東南アジアや日本の中国系の移民に占める福建省出身者の割合が多いと言われる。

 その厦門で重慶などと違い日本との戦争では重大な被害がないところと聞いていたが、「君が代」の時にはブーイングをしたり、日本選手へのプレーへのブーイングが凄まじかった。敵選手に対するブーイングは仕方ないが、相手の国歌の時は静かにしてほしいものだ。それが客人へのせめてものの礼儀である。過去の歴史問題があり、そういう訳にはいかないかもしれないが、礼儀を重んじる国であるならば、大国として毅然としてほしいものだ。

 あと1試合勝つと日本はW杯に行けるそうである。最近の日本チームは選手が固定して、新メンバーがなかなか呼ばれない。呼ばれても試合に出場できない。w杯出場が決まったら、メンバーを固定せず新しい選手を使ってほしい。国内組を優先的に使うのも、国内リーグの選手たちには相当なモチベーションになるだろう。