物事は正しく学ぶことが大切である。


正しく学べないならば、それは、間違いである。


拳法とは、実に多段階のもので、表面ではわからないものだ。


それを学べる機会は、ほとんどないに等しいだろう。


しかし、執念があればできる。


ヒトのブログを見て、自分のようにいう、さもしい先生からならうことなく、

自分を追及するようになる。この程度のカスが非常に多い。


実力のある人でも、簡単はみせない。


しかし、これをいいことに、カスでも見せずに演技だけする。


どうして漫画のように血反吐をはいてしまうのか。


そういうことを、物理的にならえつだろうか。


それを知ることはいいことだ。


しかし、することは間違いである。


するには、どういうことをするのかを、先生といえる人でも説明はしたがらない。


してください、と、次に言われるのがわかっているからだ。


できる人は、すぐにしてくれるだろう。


先ず、正しい知識を得ること


 

外来武術は外人でないとまなべない。

学ぶ知識がいい加減だと、すぐに踊りになる。

スポーツというのは、すればやせてくるものである。

肥満児では動けない。

つまり、肥満の先生からは、正しい動きは習得できない。

これは、誰が考えてもわかりそうなものだが、これができていない。

見たこともないのに、何で先生になれるのか、理解に苦しむ。

かの有名な先生は「黙然師容」が秘伝だといった。

このいみがわからなければ、ならう前段階もない。

もともと、おしえないせいかくのものだ。

せめて、見るしかない。

良い先生ならば、かなりのところまで、見せてくれる。

それを、ぼけーとしていては、習う資格もない。

おしえる先生を正しく測定すること。

実績もない、素人がほとんどだ。

こういうのに倣うのは、間違っても、使えるなどと妄想してはならない。

使える先生というのは常識人ではない。

人生の大半を修業に費やしてきた人だ

どっか、ずれているのが普通だ。

使えるというのは、少々の手品ができることではない。

最初に習うものはどれほど重要かは、先に行かないとわからない。


殆どが、それを、知らずに先に進む。


基本をくわしく説明すると、それは、当然奥の話になる。


どうしてかは、自分でさがすしかない。


そのドアが開いたとき謎が解ける。


神聖な先生は、それをまず、正確に伝えるだろう。


気づけない生徒は、する資格がない。

習い始めて、その概要がわかると、そのおくをみたくなる。


奥は、すごく遠い。


昔は、虚弱児のなんちゃってがいたから、どうでもよかった。


宗教でよかったのだ。


今は違う。


それは実用を確認する風潮があるからだ。


先ず、踊りだけのものは武術とは言えないと思う。


だから、そういうのは、僕には必要ない。


その物理的なものを学びたかった。


いろいろなブログを見て、そこでみたことを、さも自分がならったかのようにいう。


それでは、恥というものがないだろう。


ブログのなかには、ところどころ、まともなことを書いているものもある。


勉強にはなるのだが、それは金をとって人に教える人のすることではない。


しかし、ならってなければ、そうするのだろ。


こういうのが非常に多いので、わからなければ、やmといたほうが無難化と思う。


習う人にも、教える人にも、脂質がある。


武術なるものをする人は、先生立つもの、今日がいいとは思えない。


そういうものである。

練習の目的


目的をはっきりすることである。


たのしむでも、なんでもいい。


しかし、ここでいう、目的は、内容の目的である。

なんのためにそれを学ばなくてはいけないか。

ここまでならおうということである。



型には習得する目的がある。


ところが、これがわからない。


それでは、ならっても無駄というものである。


どうして、この形が、ここで必要か、説明を受けるといい。


わからなければ、問題ありだろう。


僕なら、やめる。


もう、馬鹿をあいてに時間の無駄をしたくない。


ローキックもよけられない様な、爺さんや、おばちゃんに時間をつぶされたくない。