「軍(いくさ)めく 二人の嫁や 花あやめ」
天野桃隣
佐藤継信(つぐのぶ)忠信(ただのぶ)兄弟は、源氏義経の家来となって平氏と戦いました。
文治(ぶんじ)元年(1185年)屋島の戦いで、能登守教経の放った矢が、義経に向けて飛んできました。それを見た継信が義経の前に立ち、義経の身代わりとなって矢を受けて義経を救いました。継信の死によって、源氏は平氏に勝つことができました。
平家を滅ぼして、源頼朝のもとへと帰ろうとした義経でしたが、逆に頼朝は義経を殺すよう命令しました。そこで、義経と家来たちは吉野山に立て籠りました。しかし、ここにも頼朝の兵は押し寄せて来ました。このとき忠信はただ一人義経に化けて、義経たちを逃がしました。
文治(ぶんじ)2年(1186年)京都に戻った忠信を待ち受けていたのは、北条時政(ときまさ)の大軍でした。忠信は自分の命もここまでと思い、敵の大軍を前にして、
「奥州武士、佐藤忠信の最後のさまを見よ」
と自ら腹を切って死にました。この忠信のはら切りは、その後長く日本武士の象徴となった切腹の最初と言われています。
佐藤継信・忠信の妻である楓(かえで)と初音(はつね)は、継信と忠信の死を知らず、二人の無事を祈りながら、年老いた両親といっしょに暮らしていました。平氏との戦いに出発してから7年目、落武者となって逃げてきた義経たちがようやく奥州にたどり着きましたが、そこに継信と忠信の姿はありませんでした。
毎日毎日、息子二人の帰りを母親は待っていました。日ごとにやつれ、衰えていく母を楓と初音は慰めていました。その母に二人の息子の死を知らせることはできませんでした。
夫の死の悲しみの中、楓と初音は年老いた母親のため、甲冑(かっちゅう)を身に付けました。
「母上、兄弟がただ今帰りました。ごらんください」
と、年老いて寝ている母親の前に現れました。
「あっぱれ、いみじき兄弟かな」
と、母親は喜び、楓と初音の優しい心に涙を流しました。
奥の細道、白石斉川の田村神社に甲冑堂(六角堂)があります。中になぎなた(楓)と弓(初音)を持った二人の女性の甲冑武者姿の木像があります。
楓と初音は孝女として戦前、国語と音楽の国定教科書にも載りました。
(宮城県白石市歴史探検マップより)
http://watanabehideki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/20190523