ルフの作品と「CENTER OF THE WORLD」についての覚え書き
1:ルフもポルノ画像に題をとっていたらしいということが分かった。
(画像参照)
でも、ルフの場合かなり画像を加工しているようだ(こんなにブレたポルノ画像はないと思うので)。
僕の「CENTER~」の場合は、ネットと物質世界との接点としてアウトプットした画像を設定する事がテーマだった。
求めていたのは、いわば「(多少画像のレタッチは行ったが)ネットからアウトプットした図鑑(というか、標本)のような写真」であり、ということは、ルフの諸作品と「CENTER~」は、全くの別物だということになる。
本来、こういうことは職業評論家が読み取るべき事柄だと思うけど、誰も何も言わないので一応。
2:
美術手帖2005年9月号ヴェネツィアレポート、トーマス・ルフ「jpeg」について。
「近づくほどにイメージがモザイクに分解され認識できなくなるという逆説は何を意味するのか(同上41ページ)」
考えすぎだと思う。
モザイク状のテクスチャーは『jpeg」』という題名にあるように、jpegという画像形式の特徴を示している。
それは、森山大道のモノクロ写真における「グレーン(粒子)」と同様、デジタル写真の様式に対する言及ではないだろうか。
また、さらに言うなら、インターネットの画像を扱ったルフの作品は、文脈上、ゲルハルト・リヒターが写真を描いた絵画の延長にあるのではないか。
ルフの作品におけるブレやボケ、アレを用いた表現は、『ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』のなかでの、ペーター・ザーガーの質問「あなたは、たんに写真を描きうつしてなどいません。ぼかしてピンぼけ写真のような印象をつくりだし、写真に変更を加えています。なぜこうしたぼかしや、輪郭のブレを用いるのですか?」に対するリヒターの回答「それがもっとも写真的で、ほとんど絵画となんの関係もないから」により近いものではないかと思う。
写真から、写真を描いた絵へ。
(注:「いわゆる写真」においてティルマンスが同様の操作をしている事に注目。)
『JPEG』の場合、<近づくほどにイメージがモザイクに分解され認識できなくなる>ならば、鑑賞においてイメージが結像する距離について考えてみるのもいいだろう。
ルフの初期作品は、被写体のディテールを捉えた綿密なポートレイトだから。
おまけ:
学歴者からは、僕が学閥を批判するのは学歴コンプレックスがあるからだと穿たれるかも知れないけどそれはない。
コンプレックスとは全く別のところで発想している。というか、そうでなければ書けない。
これは、蝶が羽ばたくのと同じ事だ。
つまり、理由は個人にはないということだ。
【あーこれは本当におまけですね。某早稲田出身の小説家が人を見下すような事を言っていたのが鼻について書いたんじゃないかな。「理由は個人にはない」というのは、これは社会的な提言です、ということでしょうね 20110611 追記】

