べつにカウンセリングをはじめて一ヶ月。
人とは不思議なもので、 担当している患者さんの【巡礼に行きたい】という言葉がきっかけで、ある患者さんのことを思い出した。
今から3年ほど前。前の勤務先でのこと。
その患者さんと話したのは1度きり、お手洗いで一緒になり少しだけ立ち話をした。
40歳からスーパーでパートをしていたこと、いい大学を出て大手銀行に勤務している自慢の息子さんのこと、そして自分の病気を話してくれた。
プライバシーもあるので詳しくは書かないけど、不治の病で余命宣告も受けていたはず。
「若いのに偉いですね」と言われ、私が年齢をいうと「息子と近いです」と切り出して息子の話しをし始めた。
きっと息子の話しをしたいがために、ほかの人にもこういう切り出し方をしているのだと思うと少し微笑ましくもある。
そんな会話から一転、突然現実に引き戻された。
「私、真面目に働いて真っ当に生きていたんですよ。これからは孫を抱いたり、巡礼だったり旅行したり色んなことを出来ると思っていたんですけど」
「私がなにをしたんでしょう」
「なぜ私なんでしょうか」
私は「なにかあれば相談してください。今出来ることをしましょう」という、典型的な答えしか言えなかった。
頑張りましょう、はタブーだ。患者さんが頑張ってないわけがない。
あなたはなにも悪くない、もいけない。病は業(わざ)で選ばれるものではないから。
あの日、何を言えばよかったのか私は分からない。もしかしたら私を困らせようとしたのかもしれない、治せない側に対する嫌味だったのかもしれない。
他人に寄り添うことは出来ないが、この仕事をして寄り添う努力は出来るはずなのに、当時の私はしようとしなかった。患者さんにはもう相談したいことなど無かっただろうし、今出来ることもなかったはずなのに。
"なぜ私なのか"そう思うことは間違いではない、悪いことをしたから選ばれたというわけではない。誰もが身体に種を抱えている。それが芽を出すか出さないかということだけ。
罪を犯しても法に守られ生かされる者がいる。欲のために人を殺めた者に情状酌量など必要なのだろうか、日常を奪った者に日常は必要なのだろうか。
なぜ生きたいと願うものが生きれないのか、
なぜ自ら死ぬ人間がいるのか、
生きたいと願わなくても生きていられる私も。
生と死は同等であり、そして不平等。