追悼のざわめき
14日、渋谷イメージフォーラムで、松井良彦 『追悼のざわめき 』 を観ました。不快極まりないけど、不思議な感動を覚える。遠藤ミチロウの世界観に近いような印象を持ちました。また全編モノクロということもあり、山本政志 『闇のカーニバル』 を連想したりしたのですが、エンドロールに山本政志のクレジットを見つけて、なるほどな、と思いました。
● 「不快を感じながらも感動を覚えた」のはなぜなのか?考えてみました。
どんなに真面目と言われている人でも、人はみな多かれ少なかれ自分自身のなかに狂気を宿していると僕は思っているのですが、『追悼のざわめき』 は、正に「人間の隠された根本的な狂気」を照射しているから、不快を感じながらも感動を覚えたのだと思います。
つまり、日ごろ真っ当な人間であると思い込んでいる自分のなかの隠された狂気を炙り出されたことにより、狼狽して、不快を覚える。しかし気付かされた自分の狂気を受け入れると、『追悼のざわめき』 は自分自身となる。抑圧から解き放たれ、世間と格闘している自分自身の狂気=自分自身の根本が、スクリーンに現れる。そこに感動を覚えるのでしょう。
しかし映画はフィクションです。だから決して 『追悼のざわめき』 にはなれません。『追悼のざわめき』 になった瞬間に社会から抹殺されることは言うまでもないのです。『追悼のざわめき』 公式HPに掲載されていますが、三谷みどりの 「私は『追悼のざわめき』になりたい。」 という思いは、「絶対になれないけれど、なりたい」、そういうことなんだろうと想像します。
その一方で、おすぎが「とにかく汚らしい」と吐き捨てののしる。とあります。この発言は彼自身のセクシャリティの問題と関係すると思うのですが、非常に面白いと思いました。
つまり、「日ごろ真っ当な人間であると思い込んでいる自分=僕」に対して、「日ごろから変態(ホモセクシャル)と思い込まされている自分=おすぎ」と言えます。そもそもの前提が異なるのです。変態が常態だと世間から規定される、自分自身も変態だと思わされている(思わされていた)、ホモセクシャルのおすぎが、 『追悼のざわめき』 を、傷口に塩を塗られるような思いで観たとしても、よりグロテスクな自分自身を見せ付けられ「汚らしい」と感じたとしても、不思議はないと思うのです。むしろ自然な反応だと思えるのです。
※補遺
差別問題も取り上げているblog(雑誌)なので、「日ごろから変態(ホモセクシャル)と思い込まされている自分=おすぎ」、「変態が常態だと世間から規定される、自分自身も変態だと思わされている(思わされていた)、ホモセクシャルのおすぎが」、に関する若干の補足を。
ホモセクシャルに限らず、在日朝鮮人、被差別部落民等、「悪しき存在としての●●」というイメージは、体験的な論拠があるわけではなく、権力者が作り上げるフィクションに端を発するものが殆どです。そしてその負のイメージを社会全体に蔓延させ、継続させることで(それが体制維持の一助になるわけですが)、ついには「悪しき存在」に仕立てられた人達自身までも、自らその負のイメージに蝕まれていく、という話は色々な本で目にするところですあります。
ソウルフード/ソウルミュージック/ソウルレベル
●上原善広 『被差別の食卓 』 (新潮新書)
先日ブックオフの金券で交換しました。
ジャズやヒップホップなどのブラック・カルチャに興味を持つ人はご存知だと思いますが、ソウルフードとはアメリカ南部で奴隷制を通して生まれた黒人の料理です。もちろん白人は決して口にすることはなかった料理です。
被差別部落出身の著者は、子供の頃から頻繁に口にしていた、牛の腸をカリカリに炒り揚げた「あぶらかす」という食材が、実は一般的な食材ではないと中学生の頃に気付いたそうです。つまり、あぶらかすは被差別部落特有な食材だと気付いたのです。それから数年後、「ソウルフード」という言葉に出会い、日本各地の被差別部落、はたまた世界中のソウルフードに思いを馳せ、ついには本当に世界中のソウルフードを食べて回るに至ったのです。
アメリカ、ブラジル、ブルガリア、イラク、ネパール、日本。
本書にはその記録が記されています。被差別との連関から想像される「重さ」や「暗さ」はなく、むしろ陽気で楽しいぐらい。読み物として面白いと思います。
以下余談ですが、実は本題。
著者はソウルフードを次のように定義しています。
一般の民が食べずに捨てたり、見向きもしなかった食材を工夫して作った、
被差別民たちの「抵抗的余りもの料理」
そして毛利嘉孝氏は、著書 『ポピュラー音楽と資本主義 』 で、
ヒップホップに端を発したDJカルチャに関して次のように言及しています。
DJカルチャが興味深いのは、消費文化を生んだ重要なメディアである
アナログレコードが、新しいデジタルメディアのCDに取って代わられ、
ゴミとなりはじめたその瞬間に、そのゴミを使って新しい文化が
生み出され始めたというところです。
格差社会をサバイブする上で、単純に資本主義を呪うだけではない、
貧乏人の実践的抵抗の着想として、ソウルフードとソウルミュージックの
二つのソウルレベルから、大いに学ぶところがあると思うのです。
カーストと非識字
世界の識字に関してネットで調べていたら、
UNESCOの興味深いデータを見つけました。
2000年のデータだから少し古いけど。以下抜粋します。
成人非識字率は過去30年間にわたり年々減少しているが、
非識字者数は、ラテンアメリカや東アジア地域を除き、
むしろ増加している地域が存在する。
たとえば、中国やインドネシアでは非識字者数を
減少させることに成果をあげたが、インド、バングラデシュ、
パキスタンなどの国では非識字者数は増加し続けている。
さらに、これら南アジアの3カ国で世界の非識字者数の
45%を占めている現状がある。(UNESCO 2000)
以上から透けて見えるのは・・・
世界の非識字者数の45%を占めている南アジアの3カ国は、
西からパキスタン、インド、バングラデシュと地続きです。
何れもヒンズー教に強い影響を受ける国となります。
つまりカースト的価値観が根強く生きている国なのです。
話をすこしだけ変えます。
ロマ(ジプシー)のルーツを見てみましょう。
諸説色々ありますが、インドのアウト・カースト(不可触賎民)
起源説が現在最も有力な説だと言われております。
ロマはもともと文字が不要な口承文化を持つとされる民族なので、
一概に非識字者と見なすことはできませんが、
今なお猛烈な差別に見舞われています。
日本の被差別部落のルーツはどうでしょう。
近世に身分が制度化される遥か昔、律令時代に起源を見出す
ことができます。詳述は避けますが、中国経由で輸入された
ヒンズー化したインド仏教が、高度な身分制度を核に成立している
律令体制の維持に、倫理的・宗教的裏付けとして機能したのです。
日本の非識字における被差別部落出身者が占める割合は、
非常に高いものがあります。
以上、カースト的価値観が作用する地域に限った話ではありませんが、
世界の非識字発生地域でその背景を探ってみれば、
まず間違いなく「差別」と「貧困」の問題が炙り出されてきます。
テニスコーツ
土曜日にテニスコーツ の新譜 『とても会いましょう』 を買った。
前作 『ぼくたちみんなだね』 以上に深化した音楽が聴こえてきました。
子供の頃、雨の日には、団地の3階のベランダから外を眺めていた。
退屈だけど、落ち着いていて、少しだけ悲しい、
そんな当時の気分を思い出します。