家は谷町三丁目にあって、その頃前にバス停があった。

各家の前にあったコンクリート製のゴミ箱が撤去された頃かな?

新しい形の大阪市営のバスの正面には大阪市の市章。澪つくしが大きく描かれていて

緑と白のストライブだった。時折旧型の、ボンネットバスが来ていた。店の中で待っていた母は、お店の人にバスを止めさせ、おもむろにバスに乗り込んでいた。

谷町筋は今でこそ大通りが直線に延びているが、当時は五丁目か六丁目で大きく東に折れていた.その細い谷町筋は五,六丁目あたりは機械の店が並んでいた.機械油のにおいが充満していて、家のたくさん並んだミシンの匂いと一緒でちょっと嬉しい匂いだった。空堀商店街は谷町筋あたりから松屋街筋まで両側に小売店がびっしりと並んでいた。空堀商店街のアーケードの東端は谷町筋で、その角あたりだったか精肉店があった。当時牛肉はほかの食品に比べて相対的に高価で、特上、上、中上、並みがあったと思う。客が母だけの時は、中上300グラムだったが、ほかの客がいると声を張り上げて上400グラムだったよな。向かい側に天ぷら屋さんがあり.エビ天ばかりを売っていた。木の大きなトロ箱にきちんと並べられ、多分食堂の屋号が書かれたエフがつけてあった。ここも特上から並まであったが、私にはエビの周りの天かすが大きいだけにしか見えなかった。真相は分からない。その隣くらいに、パンドラというケーキやさんができて、母の、いやお財布のご機嫌が良いときはイチゴのショートケーキを買ってもらえた。

記憶がはっきりしている店から.商店街の出口?松屋町筋近く南側に大きな間口のパン屋さんがあった.焼きたての食パンはとても良い香りで、つまみ食いを我慢するのが大変だった。その少し東側に北方面への道があり、自転車とひと用だったかな大きな通りの上を渡れる高架歩道橋だった。石?レンガ作りのそれは雰囲気がとても好きだった。鮮魚店は何軒かあり、いずれも対面販売。斜めの台に並べられた魚に時々勢いよく氷水を掛け、水がはねて客の服に掛かったら「ほや、活きがええやろ!まだピンピンしとるで。

早よ、買うた買うた!]と魚を竹の棒でたたく。「また、てんご言うて!」と言いながら値段の交渉をする。

塩から、干物専門店もあった。鮭もピンキリで、どう見ても身が薄くて食べ応えのなさそうな真っ赤な切り身が一番高かった。母はこの、体に一番悪そうな切り身を好んで買ってた。まあ。コスパがいいというのか、付いてる細い皮1枚でお茶碗1膳食べられるくらい塩辛かった。今でも紅鮭は塩辛いのが好みかな?その店には。鯨の脂身(コロ)も扱っていた。特上は真っ白で綺麗だったが

よく買っていたのはやや黄色みがかった大きい切り身だった。これを買うと決まってハリハリ鍋。大きい一抱えある株を真っ二つに割く手際の良さ。新聞紙に無造作にくるまれた水菜を持つのはもっぱら私だった。そう、八百屋さんに限らずお会計は店先につるしたかご。たまに百円札が入るとすかさず女将さんが取り出して[逃げるとあかんし」と悔しそうな旦那さんを軽く睨みながら自分のポケットにねじ込んでいたっけ。

そして極めつけは卵屋さん。これは大きさで値段が変わっていた。米袋のようで底の浅いのに籾殻を入れ、卵をひっつかないように入れてくれた。これまた私の役。帰りのバスのステップで躓いたときには悲惨だった。割れた卵から籾殻一つ一つつまみ出す作業。[あんたがチョカやから。今度から気ぃつけぃ!」ホント毒母。真ん中らへんにイカ焼きの店があった。小麦粉を水で溶いて丸く薄く焼いた上に、ゆでたイカのゲソをのせソースをかけて二つ折り。新聞紙でくるんでもらった。奮発して卵を入れてもらったこともあった。ソースが服に付くとどえらく怒られるから、あっちからこっちからかじっての食べ歩き。結構懐かしい。

10年ぐらい前にちょっと歩いてみたが、往時の活気や生活の匂いが全くなく、ちょっとお洒落なのが寂しかった。

狭かった谷間血筋は四五年頃、地下鉄谷町線の工事と共に広くなった。あの部分だけ狭かったのは、戦後の闇市の名残やでと父が言っていた記憶があるが本当かどうかは知らない。そう言えば谷町三丁目交差点近くにも戦争直後の公設市場の名残があったと記憶にある。南西角に長く営業していた喫茶店モナコ。そのあたりのことを思い出すたびに店外まで漂っていた香ばしいコーヒーの香りを懐かしく思う。只の一度も入ったことはなかったが。