久しぶりにブログを書く。最初に書いたときは気分がのっていたようですらすら書けたがその反動であまり動けなくなっていた。
ある程度日にちをおくことでようやく回復してきたと思う。
さて、今の職場が嫌で就職活動をしているが連戦連敗だ。今まで動けなくて積み重ねがないからろくに相手にしてもらえていない。それは当然であるし、身の程を知る必要があるのかもしれない。すべてを受け入れることが客観的に正しいのではないのか、と思うときもあるけれど結局どうしていいかわからなくなる。とりあえず今の状況はやばいのではないか、という感情に従って行動している。
自分を省みれば省みるほど自身をなくしていく。反省ではなく、あのときこうしておけば良かったのに、という後悔ばかりだ。そうして動けないうちにどんどん自分が社会から取り残されるような感覚を覚える。
みっともない、情けない。これらの感情が俺を動けなくする。自分の人生であるはずなのに、なぜか他人の声が入ってきてそれにとらわれる。それが認知の歪みだとしっていてもなお感情に流されてしまう。
やはり今の俺は不安なのだろう。
一般のレールから外れてしまっているから、きっと誰かが受け入れてくれる、なんて楽観的には思えない。ましてやそれが「ビジネス」であるならば当然だ。もちろん、本当に仕事を選ばずかなり過酷できつい環境であるならばある。そういった意味での仕事ならごまんとあるだろう。
仕事は選ばなければいくらでもある。
確かにその通りだ。けれど、自分が不器用であると知っている、弱いと知っているからこそ仕事を選ばなければならないと思っている。
自分の価値に直面するのは大きくなればなるほど難しい。
若ければ若いほど、無知による冒険心は価値であるし成長の糧とすることもできる。けれど、それをいい大人がするとなるとどうだろうか。
あの歳にもなって。
その言葉が僕の行動の邪魔をする。行動する時期が違うだけで同じ行動をしてもそう見られてしまっている、と思ってしまう。実際に自分も他人をみてそう思うふしもある。
20歳でもおじさんと呼んだり、自称おじさん予備が目につくようになってきた。自分より若い人がそう呼ぶたびに自分も歳だということを意識する。
自分は社会的にみて大人ではない。
普通の人生があると思っていた。いや、そもそも人生なんてなんとなくでやっていけると思ってなにも考えていなかった。目の前に与えられた課題をこなしていけば一億総中流である現代ならば問題はなかったのだろう。
けれど、かつての自分は他人が自分と比べいろいろと苦労し、いろいろと成果をあげ、いろいろと考えていることをしってなにも考えていない自分はあせった。
同じ時間を過ごしていたのに取り残されているように慌てて行動した。少しでも語れることができるように、部活に入り、バイトをし、はてはホームステイまでした。そのたびに自分の無力さに打ちひしがれて挙げ句の果てには長期の引きこもりとなった。
そしてなんとか引きこもりから脱した時にはおいていかれていた。おいていかれていることに気づかず、最初は過ごしてあとでおいていかれていることに気づいてまた絶望した。
無知であるうちは動けたのに、自分の立場を意識しまうだけで動けなくなる。
自分のことを客観的にみる必要があると勘違いして、必死に自分を相対化すればするほど自分に自信がなくなる。共通の積み重ねがないから相手に伝わるような言葉を紡ぐことができない。
無知であれば未知に向かって進めたけれど、自分を客観的にみてしまうとこれ以上動かない方がいいと思ってしまい動けなくなる。
とにもかくにも自分のなかになにかを確立する必要がある。そうすれば自分の一人称に悩むなんてこともしなくなるかもしれない。
この時代、会社は自分のアイデンティティを守ってくれない。そこにすんでいるからという理由で雇用が生まれたり、終身まで身をまもってくれたりなんてこともない。社会にそれを期待してもしょうがないし、周りに期待してもしょうがない。そういう雰囲気の中でできることは自分の問題として自分と向き合い、自分を信じることが必要なのだけれどそれが難しい。
他人に見向きもされない自分をどうして信じられようか。
どちらにしろきっかけが必要なのだろう。
支離滅裂になってしまったがこれでおわる