大事なタイトル画面にテロップが挿入されてしまいましたが(笑)、今週も真田丸始まりました。







第5回「窮地」


5回ともなるとパターンがわかってきましたね。

タイトルは漢字2文字なんですね。







天正10年1582年、武田氏滅亡という大きな節目を乗り越えた矢先に、武田氏を滅亡に追い込んだ張本人である織田信長が明智光秀に討たれてしまいました。


それにしてもこんな短期間に目まぐるしく歴史が動く年ですね。







堺にいた家康は、わずかな手勢を従えて本能寺の変を知るに至りました。


この時、家康に随行した供廻は34名ということですが、ここで家康の取る行動は光秀を討つのではなく、本拠地三河に戻ることでした。







さて、堺から三河までどのルートを取るのが得策か!?


陸路か海路か・・・


いずれにしても大きな街道には光秀の兵が待ち受けており、そうやすやすと帰れる保証はなかったでしょう!


そこで最善の策とされたのが、伊賀越え。


単純に言ってしまえば、山から山への難所の行軍。







行動を共にしていた穴山梅雪もここで家康と袂を分けたことが明暗を分けることになるとは・・・







家康と別れた穴山梅雪は、この後落ち武者狩りに遭って命を落としたとされる。







情報が発達した現代においては、あっという間にインターネットで知ることになることも、あの当時如何に情報網を持っていたかで明暗が分かれたのでしょうね。


少なくても真田氏はいくつものアンテナを張り巡らされたと考えられます。


その点、情報の入手は速かったですね。







山を越えるだけでも一苦労なところ、命の危険を晒されながら、三河までの道中、生きた心地はしなかったでしょうね!







実際、険しい斜面もあったでしょうね。







さて、真田氏を中心に信濃の国衆にも本能寺の変の情報がもたらされ、今後の行動について室賀正武と意見が割れています。







真田氏にイニシアチブを取らせたのが、昌幸の弟信尹を上杉景勝のいる春日山城に向かわせているという決定打!







地図で見ると良くわかりますよね。


信濃は四方国に囲まれ、何処から責められても弱い立場。


せめて強い味方を背に対峙したいところ。


そういう意味では、上杉を味方にし、背後を固めたいと思うのはうなずけます。







上杉景勝に拝謁した信尹は、昌幸の意を伝え、願わくは織田軍からの脅威に加勢してもらいたい!と伝えたところ、あっさり断られてしまった。







上杉氏の本意としては、信長亡き今、弱った体制を打ち砕くというより正攻法で交えたい!と言うものの、本音は魚津城の大敗から帰還した矢先、越後領内の不穏な情勢の中、他国に加勢する余裕などなかったはず。


真田氏としても苦しい立場は変わりません。







関東の鎮定にあたっていた滝川一益から呼び出された昌幸は、当然本能寺の変を知っているものと思いきや、この時点でまだ認知しておらず。


一益が知ったのは、本能寺の変から5日後とされる。


いくら遠い所にいたとはいえ、本当に知らなかったのだろうか・・・?


この後出てくる、清須会議にも遅れて参上することから、実際知らなかったとみるのが妥当ではあるが、情報を制するということがあの時代いかに大事かということを実感した場面である。







この時点でのんきに湯場を聞いている場合ではないのだが・・・


一益の出方次第では、真田氏としても織田軍への謀反と取られかねない状況。


まだ一益の耳に入っていないことが幸いする。







この時、一益から信長のこれからの展望を聞かされ、戦のない平和な日本を作るという壮大な思いを知り落胆する。


一益としては、信長からの褒美に国や城よりも茶器を欲したという逸話もあるが、この時実際能を舞ったり、文化人としての顔も見せていたらしい。







来週も楽しみですね。