KY、空気読めないってあるじゃない?この空気って、いつも吸っている空気ではなく、その場のクウキのことだよね。ということは、誰がそのクウキを醸し出しているかというと、その場にいる人たちだよね。だとすれば、その場のクウキって、もちろん変えられるってことでもある訳だ。で、今日はそのクウキの話をしてみようと思う。
光合成によって植物は、酸素を地球に供給している。だから緑の多い場所にいると気持ちがいいし、なにやら浄化されたような気にもなる。神社やお寺に行くと、同じように気持ちが良くて、清々しい気分になる。お父さんはダイビングをやるので、きれいな水の中にいると同じように気持ちがいい。最近流行のパワースポットも同じように気持ちがいい。山の頂上や、浜辺、木立の中…あげ始めたらきりがないね。実はこれらは全部、同じ理由で気持ちがいいんだよ。それは、生きているものが(狭義の生物という意味ではない)生き生きとしている場所を作り上げ、その出来上がった“場”が、人をいい気持ちにさせることができるってことなんだ。神社やお寺が気持ちいいのは、神主が祝詞をあげ、お坊さんが読経するから、その場はどんどん清まり、清しい場を作る。木々が、せっせと光合成をして眼に見えないものを沢山発するから、気持ちがいい。実際、マツ、ヒノキなどの針葉樹林ではフィトンチッドの発散量が多く、免疫力の向上などに寄与すると言われている。地球自体も生き物だから、いい場所も悪い場所も持っているんだ。船井幸雄はそれを、イヤシロチ、ケガレチと呼んでいる。おそらく昔の人は、そういう場の力が読めたので、神社仏閣は良い力がある場所に意図的に作ったんだろうと思われる。昔は、家を建てる時でもきちんと場の力を借りて建てたんだ。都市を造るときもそう。その技術は、風水というカタチで今に伝えられている。徳川家康は原野だった関東平野に江戸を作るとき、京の都の風水を真似て作ったとされているし、江戸城築城の際にも、風水の力を借りて作っている。それは、詳述は別の機会に譲るとして、ある一定の形式を伴いさえすれば、浄化された場を作ることができるということでもある。
神道では、神に向って「祓いたまえ、清めたまえ」とお願いをする。これは祓い、清めることによって、その人の“場”を変えようとする儀式だと理解している。人も生き物の一部だから、清めることができると考えた。そして神は古来から、“木”と“火”と“磐座”に降臨すると考えられてきた。この世界の清まったものに、神は降りると考えたからだ。また、神棚には“塩”と“水(または酒)”と“米”を捧げる。神様の食事とも言えるが、お父さんは自然界に存在する清まった力を、神に捧げたのではないかと解している。こうして見てみると、実は人間は自然の力と共にあらねばならず、常に浄化していなければならない生き物なのだということが解る。もしそれを怠れば“穢れ”が生じ、人間本来の力が薄れていくのではないかと、お父さんは思っている。
例えば風邪をひいて病院へ行く。そこには、病気になってしまった人たちが大勢いて、悪い気が溜まって“場”の力が弱まるので気が滅入る。例えば、他人の気を滅入らせる人っている。そういう人と仕事の話でもしていると、自然に力が萎える。川の流れは、常に流れているから清しい気分になれるが、川溜まりなど流れていないところには、汚物が溜まったり、水自体が淀む。こうして見ていくと、何かが滞っているところは“場”が汚れ、その汚れは人にも伝わるということがわかる。冒頭に書いた場の空気も同じことなんだね。でもこれは変えられるんだよ。文字通り空気を変えればいい訳だし、それこそ祝詞を上げるだけで変わってしまうことがある。つまり、自分の心がけ次第で場の力は変えられるってことだ。

できることなら、場の空気を変えられる人でいて欲しいと思う。もしも何かの理由で滞ったら、それを変える力を持って欲しいと思う。それには、自分が自然と、そして他の人、生き物と共にあり、その力を借りて生きているんだという自覚を持っていることが肝要だ。そして、その力に感謝し続けてさえいれば、いつも清しい気持ちで生きていける。
光合成によって植物は、酸素を地球に供給している。だから緑の多い場所にいると気持ちがいいし、なにやら浄化されたような気にもなる。神社やお寺に行くと、同じように気持ちが良くて、清々しい気分になる。お父さんはダイビングをやるので、きれいな水の中にいると同じように気持ちがいい。最近流行のパワースポットも同じように気持ちがいい。山の頂上や、浜辺、木立の中…あげ始めたらきりがないね。実はこれらは全部、同じ理由で気持ちがいいんだよ。それは、生きているものが(狭義の生物という意味ではない)生き生きとしている場所を作り上げ、その出来上がった“場”が、人をいい気持ちにさせることができるってことなんだ。神社やお寺が気持ちいいのは、神主が祝詞をあげ、お坊さんが読経するから、その場はどんどん清まり、清しい場を作る。木々が、せっせと光合成をして眼に見えないものを沢山発するから、気持ちがいい。実際、マツ、ヒノキなどの針葉樹林ではフィトンチッドの発散量が多く、免疫力の向上などに寄与すると言われている。地球自体も生き物だから、いい場所も悪い場所も持っているんだ。船井幸雄はそれを、イヤシロチ、ケガレチと呼んでいる。おそらく昔の人は、そういう場の力が読めたので、神社仏閣は良い力がある場所に意図的に作ったんだろうと思われる。昔は、家を建てる時でもきちんと場の力を借りて建てたんだ。都市を造るときもそう。その技術は、風水というカタチで今に伝えられている。徳川家康は原野だった関東平野に江戸を作るとき、京の都の風水を真似て作ったとされているし、江戸城築城の際にも、風水の力を借りて作っている。それは、詳述は別の機会に譲るとして、ある一定の形式を伴いさえすれば、浄化された場を作ることができるということでもある。
神道では、神に向って「祓いたまえ、清めたまえ」とお願いをする。これは祓い、清めることによって、その人の“場”を変えようとする儀式だと理解している。人も生き物の一部だから、清めることができると考えた。そして神は古来から、“木”と“火”と“磐座”に降臨すると考えられてきた。この世界の清まったものに、神は降りると考えたからだ。また、神棚には“塩”と“水(または酒)”と“米”を捧げる。神様の食事とも言えるが、お父さんは自然界に存在する清まった力を、神に捧げたのではないかと解している。こうして見てみると、実は人間は自然の力と共にあらねばならず、常に浄化していなければならない生き物なのだということが解る。もしそれを怠れば“穢れ”が生じ、人間本来の力が薄れていくのではないかと、お父さんは思っている。
例えば風邪をひいて病院へ行く。そこには、病気になってしまった人たちが大勢いて、悪い気が溜まって“場”の力が弱まるので気が滅入る。例えば、他人の気を滅入らせる人っている。そういう人と仕事の話でもしていると、自然に力が萎える。川の流れは、常に流れているから清しい気分になれるが、川溜まりなど流れていないところには、汚物が溜まったり、水自体が淀む。こうして見ていくと、何かが滞っているところは“場”が汚れ、その汚れは人にも伝わるということがわかる。冒頭に書いた場の空気も同じことなんだね。でもこれは変えられるんだよ。文字通り空気を変えればいい訳だし、それこそ祝詞を上げるだけで変わってしまうことがある。つまり、自分の心がけ次第で場の力は変えられるってことだ。

できることなら、場の空気を変えられる人でいて欲しいと思う。もしも何かの理由で滞ったら、それを変える力を持って欲しいと思う。それには、自分が自然と、そして他の人、生き物と共にあり、その力を借りて生きているんだという自覚を持っていることが肝要だ。そして、その力に感謝し続けてさえいれば、いつも清しい気持ちで生きていける。


