さて回想録・・・・続けてみます。
父の夏から始まった入院生活は一進一退。
私は夏に緊急入院した時から、多分もうそう長くはないと感じていた。
弟に
「葬式の事とか考えておいた方がいいよ」
と言うと
「まだ早い!!」
と怒られた。
その姿勢は連れ合いのみちこと弟は父が息を引き取るまで同じだった。
頑なに「父のイノチ」を信じていた。
入院から4か月経ち、病院から転院の提案がされた。
そろそろ療養型の病院へ移って欲しいと言う事だ。
しかし連れ合いのみちこは承諾しなかった。
彼女は「家に帰りたい」と言う、父の強い願いを叶えたいと必死だった。
転院となると、また新しい医療関係者と人間関係を構築していかなければいけないストレスを父に与えるのが嫌だったようだし、自分も長い病院での看病生活に疲れていたのでしょう。
みちこは慣れ親しんだ我が家で父と二人の生活を最後にしたい。
私が家で看取る
この一心で彼女は様々な機関に協力を要請した。
本当に日本と言う国は良い国だ。
自宅で療養するとなると、それをバックアップするシステムがたくさんあり、また金銭的にも様々な補てんがあって、負担をできるだけ少なくするような提案もしてくれる。
私達は自国である日本を良い国ではないと思いがちで、政治の駄目さ加減を嘆く人が多いが、こういった立場になり、たくさんのありがたい事に遭遇して、初めて自分が住んでいる国が、どれだけ素晴らしのかを実感し、その有難さが身に染みるのですよね。
あ~税金を払っていてよかった・・と思える瞬間です(笑)
担当医、訪問医、訪問看、ヘルパー、行政が連携して、父が家に帰る準備が着々と進んでいった(らしい)
らしいと言うのは、その準備等のプロセスを私には一切知らせなかったからです。
なぜ連絡しなかったのかと言うと、私に心配させていけないと言う事と、家で看取る事を反対されたら嫌だからと言う理由だった。
恐らくみちこは後者の思いの方が強かったのでしょう。
私は反対しないし、反対する立場でもない。
私は父の事に関しては感が良い。
今までも父が具合が悪くなる数日前になると、なんだか無性に父の事が心配になり、弟なりみちこなりに電話をするのだ。
「お父さん大丈夫?」と
もちろんその時には大丈夫なので、二人とも怪訝な返答をするのですが、必ずその数日後に父の具合が悪くなるもんだから、二人とも私の電話にビビっていた(笑)
父が退院すると言う話は全く知らされていなかったが、仕事が休みの朝に、ふと思い立って大阪に帰省した。
前日の夜、弟に「明日病院に見舞うわ~」とメールしたら、「来週退院やで~」と。
なので退院してから来たらという返信だったが・・・
私はとりあえず行くって決めたからいくわ~と
行きの新幹線の中でみちこに電話を入れた。
今から帰ります・・・・
みちこはびっくりして
「えっ、お父さん来週退院よ・・( ゚Д゚)」と
「あ~知っている昨日聞いたから」と
怪訝なみちこ。
後で聞いたら、退院すると言うを知って、反対しに帰ってくると思っていたらしい。
病院について、父を見舞うと呼吸苦がひどいようで、担当医が呼吸補助のマッサージをしていた。
お父さん~と顔を出すと、父は苦しながらも嬉しそう笑った。
「おお~来てくれたんか」
息が苦しいのであまり話はできないが、父の顔を見て少し安心した自分がいた。
で、父は苦しそうな息をしながらみちこに
「お母さん、おとりに何か美味しいもん食べにつれてやって」
と仕切りに言っている。
お腹が空いていないので、食べに行くふりをして、みちこと二人でディルームで1時間以上話をした。
私は反対していない、みちこさんさえよいのではあれば大賛成です。
という姿勢を見せると安心したようだった。
安心したのか、それから毎日の看病の大変さを長き時間にわたって喋りまくった。
まぁ父の面倒をみてくれているのだから、それぐらいのお役目は大歓迎。
彼女の事を全肯定する返答しかしなかった。
「そうやね」「そうやな~」「大変やな」「ほんま~」「へぇ~」「そうなんや~」「ごめんな~」「ありがとう」
この8言ぐらいの言葉をひたすら繰り返した。
喋り終わると本当にすっきりしたようだった。
また病室に戻ると父は「美味しいもん食べてきたか?」と嬉しそうに聞いてきた。
「食べてきたよ」と答えた。
入院したての頃も父は私の心配をよくしていた。
「大丈夫!もう子供とちゃうねんから~」
と言うと父は必ず言う
「お父さんにとってお前らはいつまでたっても子供や、心配するのは当たり前や」
と、本当にありがたいと、、、、
私の事をこんなにも思ってくれる人が一人でもいる事がありがたい。
天涯孤独になっていてもおかしくない生い立ちである。
こんなに身に染みる事はない。
そして最後の言葉となった
「もうお父さんは何もお前らにしてあげられへんけどな、、、、体に気をつけなあかんぞ」
を聞いて病室を後にした。
これが父と普通に会話をした最後だった。
今、やっと落ち着き、父の事を回想する余裕ができた。
以前にも書いたが、こういった一連の親との別れのプロセスをしっかりとさせてくれてた父の愛情がありがたく思えて仕方がない。
親が死んでちゃんと泣ける事のありがたさよ・・・・・・
素直に悲しいと思えるありがたさよ・・・・・
こんな普通の事がありがたいと思える自分が愛しくなる(笑)から不思議。
あ~ワタシって普通の事が普通にできてるやん!!ヤッターヽ(^。^)ノ
みたいな感じでしょうか???(^_^;)
私は父と出会えた事が本当に奇跡だと思うのです。
母が生きていて、父との婚姻関係があれば、親子関係が継続されていてもおかしくないが、母が死んで30年以上たっていれば普通、連れ子との親子関係は無くなっている事が多いだろう。
もちろん両親の婚姻関係が継続されていたとしても、継父とうまくいかないケースはいっぱいあるだろう。
父の深い愛情があったからここまでの親子関係が築けたのでしょうね。
私達は母が死んでからの方がより絆が深くなった。
実家に帰省する度に、帰れる場所がある事のありがたさを私は実感した。
それはお互い年齢がいくほどに、有難さが増してくる。
年齢を重ねるって感謝が多くなる事なんだ~とも思った。
そして親との別離のプロセスをさせてくれた父に感謝してもしきれない。
しかし・・・・
父に私を託した母道江にも感謝しなければいけないのだろうな~なんて事も思うのだ。
連れ子である私をここまで愛情深く育てられる男だとわかって、ヤツは父を選んだのだろうか???
彼女の男を見る眼・・・・・あるのかないのか私には判断出来かねる。。。。。
だってまずはじめがおかしいでしょ~よ。
私生児を産む・・・・前に、、、
ちゃんとした結婚しましょう~よと母には言いたい。
続く