ジリジリとした暑さと青く抜ける空に白い雲。。。。真夏のこの風情が私は苦手である。


静かな雰囲気から突如として阿鼻叫喚の世界に貶められる・・・・


そういうイメージが8月の初頭になるとどうしても付きまとうのである。


終戦の年1945年の8/6と8/9に日本に原爆が落とされた。


明日の8/6は広島、8/9は長崎。


私が生まれたのは、そのずっと先なので、現実で終戦を体験していない。


もしかしたら私はこの事を毎年夏になると書いているような気がするのですが(笑)


この日(終戦の日)をなんとなく覚えている感覚がして、毎年この時期になると不思議な感覚に囚われるのです。


原爆が投下された記憶と言う事ではなく、1945年の日本国の雰囲気を私のカラダの血肉が憶えているような感覚があるのです。


なのでこの季節になるとゾワゾワして落ち着かなくなる。


ジブリ作品の火垂るの墓は具合が悪くなるので観る事はできない。


だからと言って前世で終戦を体験したと言う事はさらさら言うつもりはなく、反対に個としての前世は無いと捉えている。


しかし前世はないの?と問われると「ないちゃ~ないけど、あるっちゃーある」と答える。


私が決める話でもないのですが(笑)


その根拠となっている夢を見てから、そんな捉え方になったのです。


あくまでも夢ですので・・・・・・妄想の世界の話として受け止めてください。


これも以前ブログに書いたのですが。


私が死んだ・・・・
そこから始まる夢です。


私が死ぬと、私は自分の魂をカラダから抜くのです。


体から抜いた私の魂は真四角のブロックのようなものなのですが、それを両手で持って、ある山を登るわけです。


私のように「魂ブロック」を抱えている人がたくさん、同じ坂道を登っていきます。


一本の山道をひたすら登っていくわけです。


斜面道で右側は切り立った崖で足を滑らすといっきに地上まで滑落。


そんな山道でした。険しさはありません。


空は・・・・・空の色は覚えていない。


ただただ自分の魂を大事に持ち、必死で登っていくわけです。


そして頂上付近に着くと少し開けた場所に出た。


右側に突出した部分があり、そこから下を覗くと大きな大きな湖がある。


その湖の全容は把握できないほどの大きさである。


岸が見えない。


そこから自分の魂のブロックを投げ入れるわけです。

全員が躊躇なく投げ入れる。


投げ入れた魂の塊は、その湖の中で溶けて湖の一部になる。


私は山を降りる。


その道中でカラダが消えた。
途端に軽くなり意識も定かではなくなり、漂うように山を降りた。


場面が変わり・・・・・私は湖の岸辺に居た。


なとなくぼんやりした気体の私がいるわけです。


回りを観ると私のような、ぼんやりしたエネルギーの塊のような気体がわんさかいる。


岸辺に木で作られた四角い大きな柄杓を持った人が湖の水を汲んでいる。


その汲んだ水を気体にかけると言うか・・・・注いでいくわけです。


見る見るうちに、その気体は水を吸いこみ、リアルな人のような形になって、、、、、


どこかに消えていく。


私もその水を注いでもらった途端に感覚は如実になっていき、カラダの重さを感じるようになった。


そこで目が覚めた。


恐らくこれでまた人間界に戻ると言う行動に出るのだと思うのですが・・


もちろん私の投影です。。。。


私がわかりやすいように私の想像できる範囲で、現実的なわかりやすい映像として観てるのだと思うのです。


ただ何が言いたいのかと言うとですね・・・・


この事で結構、イノチに対しての恐れが無くなったのです。


生きると言う事が怖くなくなったわけです。


ある意味、自分のイノチが腑に落ちた・・・そういう感覚になった事は確かです。


私の魂は一回、大いなる一つ命の中に溶けて融合されてしまって、私(おとり)と言うパーソナリティは消えてしまったのです。


しかし、その大いなる一つ命の塊からまた一部を汲み上げて命ができた。


そこに今生での私と言う個人的記憶と言うものは存在しないと感じたのです。



様々な果物をミキサーにかけて「ミックスジュース」を作ります。


ミカン、バナナ、メロン、スイカ・・・・なんでもありの美味しい究極のジュースです。


ミックスジュースになってしまったら、ミカンエッセンスは含まれているけど、もうそれはミカンジュースではない。


それと同じだと・・・・・


全体からコップ一杯のジュースを飲むと、そこにはすべての果物の情報が含まれいてるわけです。


ミカンもバナナもメロンも・・・・・スイカも。。。。。


人は全体からすべての情報が入った一部を魂としていただき、それを元に今生で一つのパーソナルを作って、新しい記憶を上書きしていく。


そしてまたひとつイノチに戻るわけです。


それが永遠に続いていく。


ミカンだけは以前の自分の記憶だっととしてもブドウやバナナは以前の自分の記憶ではない。


しかしそのジュースを今生で飲めば・・・昔の自分の記憶のミカン以外にもブドウやバナナも自分の記憶となる。


なので前世の記憶は残るのですが、一人の個人の前世の記憶ではなく、すべての魂の記憶エッセンスがインプンットされて、私達はこの世にやっていていると私は捉えているのです。


私はその夢を見てから、前世についてはそのように捉えています。


要するに第二次世界大戦の記憶もあってもおかしくない。


終戦を経験した人はごまんといるわけですからね。


ただ便宜上ジュースで例えましたが、そんなに単純な話でもない事は確かです。

その時の個のテーマであったり、志向性であったり、カルマであったり、回りの縁者の資質であったり、場のバイブレーシヨンであったり、時代であったりと、そういう事が絡み合い、湖からくみ上げる水の質が変化してくる。(ように見えた)


ミックスジュースを作るミキサーの中は均等ではない。


まだ砕かれていない果物があったり、ダマになっていたり、濃淡があったりする。


夢で見た柄杓の水はドロドロだったり、光った水だったり、泥水だったり色々でした。。。。。


私が注いでもらった水の性状は全く覚えていないのですが・・・・(笑)


まぁ。。。。。宿命と言うものがそこで発生するのかもしれませんね。


柄杓で汲み上げた水の種類は選べない。それが宿命と言うのでしょうね。



いずれにしても・・・・・たぶん、今生のパーソナリティは今回だけだろう。


一期一会とは自分に対しても言える事だ。。。。。


遠慮深く生きるのは、あまり得策でなないよに感じる今日この頃です。


だってどうせ生きても、あと20年でしょう。

すぐに魂が抜ける日は来てしまうのさね・・・・



我がままに生きると言う意味ではありません。


命を燃焼させるための生き方とは


それを真剣に考えないとですね。


私はこの時期になると終戦を迎えた時の日本民族の腹の底から湧き出る虚しさをどうしても感じてしまい・・・毎度キツイ夏を迎えるのです。


8月が苦手な理由が明確になってから、私は毎年8/18に戸隠神社の大祭に参列して奉納するようになった。


意味はないが・・・・・意味がある。


そう思って今年も舞わせてもらいます。


今日の話は私の妄想話と聞き流してくださいまし。