先回の記事で私(我)を薄くするには・・・・・
当たり前の事を当たり前にすると書きました。


当たり前の事とは・・


我良しで欲求のまま生きない方がいいんじゃねぇ~の???と言う事なのですが・・・・その一番の基本は・・・と言うと・・・・


自分の身体(神体)を大事にするです。


食べ過ぎ、飲み過ぎ、睡眠不足、動き過ぎと言った物理的な行為や、心の間違った使い方・・・・


そういう事を改める・・・・・


自分が借りて住んでいるこの身体(神体)を大事に扱えないモノが、他人を大事にできるわけがないと私は思っているからです。


他人はイナイ、自分はナイという本質的な話は少し置いて話を進めます。


これを言い出すと話がややこしくなるからです。


本質的には他人も自分もナイと言うのは真理だと思うのですが、私達が認識できる事実は「自分は在る」し「他人も在る」


真理は概念ですし・・・・言ったモン勝ちの世界にもなりうるし・・・・この話に足を踏み入れると中々、話は着地しないので。。。これには基本触れません(笑)


なので一応の設定として、この両方「他人」も「自分」も「在る」としている世界に私達は住んでいるわけです。


違う言い方をすると「在る」と言う設定のゲームに参加している。


なので自分も他人も「在る」と言う前提でのゲームの攻略法の一つだと思って読んでくださいね。


さてはて・・・・


自分の身体を大事にするの一番に私は「食べ過ぎ」と書きました。


どうして食べ過ぎが自分の身体を粗末に扱っていると私は思っているのかと言うとですね~


生体機能として口から入った食べ物は様々な場所で消化吸収されます。


様々な場所と言うのは口から肛門までの10数mの消化官はさることながら、、、、肝臓、膵臓、腎臓などから出る消化液で口から入った食物を一番小さい分子構造まで分解します。


口から入った炭水化物、タンパク質、脂肪などはそのままでは使えないのです。


この栄養素を身体が活用できる分子構造まで分解しなければエネルギー源にもなりませんし、臓器を作る事もできませんし、様々な生命活動に必要な化学反応もできなくなります。


人が摂取しなければならない栄養素は約40種類あると言われていますが、代表的なものが、よく学校で習う五大栄養素です。


タンパク質、脂質、糖質(炭水化物)、ビタミン、ミネラルです。


簡単に言うと炭水化物はグルコース(ブドウ糖)にまで分解されます。


小さくされて初めてエネルギー源として活用できるようになります。


小さくなったブドウ糖は脳細胞や筋肉細胞に運ばれエネルギーとして消費。


残ったものは肝臓や筋肉に蓄えられて必要に応じてまたブドウ糖になり動力源として消費されるのです。


タンパク質はアミノ酸に分解され、血液により身体の各部に運ばれ各細胞で種々のタンパク質に再合成され身体を構成する材料になります。


ブロックのおもちゃを想像するとわかりやすいかもですね。


ロボットの形に作ったブロックはそのままの形のままだとロボットのままです。


しかしバラバラにしてまた組み立てると船や家など、どんな形にで作れます。


いずれにしても、一度形を壊してバラバラのブロックにして始めて、次のモノを作れるのですね。


それと同じ。


なので・・・・・コラーゲンをそのままゴクゴク飲んだらすぐさまお肌がピカピカになるかと言うと。。。それはちょっと違うのでしょうね(笑)


あれは企業の策略なのかもしれません。


コラーゲンは大きい分子構造で、たんぱく質ですから、アミノ酸に分解されます。


しかしそのアミノ酸がまたコラーゲンに再構築されるかどうかは・・・・実はわからないと言う意見があるのです。


確かにそうですよね・・・・


電車、家、船などを作ったブロックを全部バラバラにして一つのおもちゃ箱に入れてしまえば、どれが電車を作っていたブロックかわかりませんからね。


また動物性のタンパク質はアレルギーを引き起こしやすいので、消化酵素でアミノ酸まで分解して小腸まで行ってから吸収されるようになっているのですね。


生体システムって凄いですよね。


要するにどんな高級なタンパク質もアミノ酸に分解されてしまえばありふれたアミノ酸になってしまい、全身に散らばってタンパク質合成の材料になるということです。


また脂質は脂肪酸にまで分解され、血液により筋肉細胞等に運ばれエネルギー源として消費されます。


余剰脂肪酸は中性脂肪として身体中の脂肪細胞に貯えられ、必要に応じて再び脂肪酸に分解されて、エネルギー源として使います。


簡単に消化吸収の仕組みを書きましたが、もっともっと身体は複雑な働きをしています。


身体は化学工場なのですよね。


身体に食物を供給すると途端にその工場は稼動し始めます。


くまなく細胞にその栄養を送り込むために必死で働くわけです。


おびただしい過剰な食物が体内に供給されると、その工場は途端に過重労働を強いられる事になる。


各臓器は夜の副交感神経が優位な私達が眠っている時もお構いなく、夜な夜な働き続けるのですね。


のべつ間もなく食物が口から入ってくると休む間もありません。


内臓達はその処理に追われて疲労困憊、過労に陥ります。


なんだかどこも悪くないのに毎日疲れている・・・・と言う理由の一つがこの消化器官内臓達の疲労している事が挙げられるのです。


外側に発揮するべき生命エネルギーを消化吸収で使うことになっているのですね。


しかしこの消化の働きにも限界があります。


需要と供給のバランスが崩れると口から入ってきた食物を完全に消化しきれず、血液は汚濁されたまま全身の細胞に供給されてしまうのです。


この現象がよく巷で言われている血液ドロドロ状態です。


消化はただ食べ物を分解して、分子構造を細かくしているだけでなく、不要な老廃物を除去する為の作業もしているのです。


食べ物には身体にとって毒的な物質も含まれていますから、それをふるいにかけて身体に有益な栄養素と身体に悪影響を及ぼすような物質を選別しているのです。


なので、あまりにたくさんの食物が入ってくると選別が間に合わなくなり不要な老廃物も一緒に身体は吸収してしまい、血液にのって全身を回ってしまうのです。


内臓さん達は必死で毎日、口から入ってくる食べ物を無毒化し、そして小さくして各臓器が使えるように処理をしています。


そんな健気に日夜必死で働いている内臓さん達を酷使しているにも関わらず、汚れた血液を全身に回してしまうなんてほんと迷惑です。


過重労働者に泥水を飲ませて働かせているようなものなんですね。


そんな事を全くわからず調子が悪いと言って医者に行き、薬を飲んでまた毒素を撒き散らし内蔵に負担をかける・・・・


あ~書いているだけでごめんなさいの気持ちが涌いてきます(笑)


風邪を引いたり、肌が荒れたり、花粉症なのは、全部毒を出すために身体がしていることです。


その浄化作用を私達は自ら止めてしまっているのですね。




下記のような文言があります。


「ごくささいな病気をしても医者のところに行くのが習慣になっています。

普通の医者が間に合わないところでは、ニセ医者に相談しています。

医療がなければ病気は治らないものだという致命的な妄想にとりつかれて苦労しています。



これが人類に対して、他のどんな悪よりも大きな悪影響を及ぼしてきたのです」
 
「もちろん、病気になれば治療しなくてはなりません。

しかし、医学が治すものではないのです。

薬は無用であるばかりでなく、時には害になるものです。



病人が薬を飲むのは、家の中にごみがいっぱいになっても掃除をせずに、ただ被い隠してしまおうとするようなもので馬鹿げたことなのです。



被い隠せば隠すほど、ごみは腐敗していきます。

人体についても同じでしょう。病気や不調はからだのどこかに汚物が蓄積していることを知らせる自然からの警告なのです。



そして、医薬の手を借りてその汚物を被い隠すのではなく、自然の働きに任せて汚物を除去するのが知恵というものでしょう。

医薬に頼るということは、自然の働きを二重に困難にしていることなります」





なんでもガンジーさんが言った言葉だそうですが、、、、大きくうなづける名言だと思います。


医者に行く前に正す事はたくさんあるはずです。


ベジタリアンを推奨しているわけでも、食べるなと言っているわけでもありません。


世間を見ているとあまりにも飽食過ぎる事が怖くなるのです。


食べるという行為そのものが、イノチを頂く事です。


それを最小限にとどめる意識もどこかで持っておく必要があるのだと私は思うのです。


しかし私はそういう偽善的な事を言いつつもイノチをいただきながらイノチを生きるしかありません。


なのでちゃんとイノチに感謝しながら食べ物をいただくという心を持ちたいと思うのです。


世界で人間が一番偉いと私達は思いすぎているように感じてなりません。


少し思想的になってしまいましたが・・・・・話を戻します。



まぁ私の言いたい事は内臓を少し休めるクセをつける・・・・・と言う簡単な事です。


内臓を酷使し、その結果汚れた血液を全身に送り込む。

各細胞にとっては実に迷惑に他なりません。


無慈悲な行為ですよね。


なので内臓さん達が普通に働ける程度の食事の摂り方をして、全身の細胞に清浄な血液を供給できるような食生活をする事が、自分のカラダを大事にすると言う事なのではないでしょうか・・


「少食」


これが自分に愛を持って接する第一歩の行為だと私は思います。


美食家は恥ずかしいと思える社会が早くくればいいと願って止みません。


愛の行為はそこからが始まりなのではないでしょうか。