我が家の近くの線路沿いにとっても大きな桜の木があって見ごたえがある。


一昨日の昼間、超満開状態。


自転車でその前を通るとおじいさんがベンチに腰掛けて一人花見をしていた。


とっても柔和なお顔立ちで桜の木を見上げている・・・


愛でている・・・・


と言う言葉がぴったりの風情だった。


いいな~こういう歳のとり方・・・・とシミジミと思ったけど。


多分今の私には無理。

心が汚れすぎている・・・・・(笑)


まだまだそぎ落とさないといけないものが一杯ある。

自分の主観が強すぎて、自分の灰汁の毒素にやられそうになる(笑)


ただこればっかしは社会から距離を置かない事には難しいだろう。

しっかりと主観を持ってないと流される。


なので多分今は桜の木とは融合できないだろう。
ドロップアウトしてからなんでしょうね。


話は横道のそれたけど。。。。。


このおじいさんが一人座っている風情を見て、寂しそうだな・・・とは感じない。


そう・・・・寂しそうだと感じるエネルギーと一人が楽しそうだと感じるエネルギーがある事に気づく。


このおじいさん。。。。とっても楽しそうで幸せそうなのです。


まぁ私が見ているだけですから、内実はわかりませんが(笑)




もう一つ同じような事を書いていて思い出した。

数日前の話です。


会社の近くにある芝公園、、、桜がきれいなのです。


私はラッシュを避ける為、いつも1時間くらい早く会社に入り、朝ヨガをしてから始業する。


先日は芝公園の桜林に寄ってから会社に向かった。

前日、たくさんの人が花見宴会をしたのでしょう。


酒盛りの残骸が大量に破棄されていて、美しい桜の公園も台無し。

その大量のゴミ横で猫の集会をやっていた。


猫達は残飯をあさって食事をしながらの集会だ。

そしてその向こうにはホームレス達のお花見。


3人が昨日の残飯であろうか・・・・盛大な酒盛りを早朝からやっていた。


私は早朝の清清しい空気の中で桜を愛でようと出向いたが・・・・大量のゴミと猫とホームレスが残飯をあさる姿に目が釘付け・・・・


そっちの方が性分的に興味深いので・・・・(笑)


そんな集団ホームレス達とは少し離れた場所に一人でポツネンと座っているホームレスがいた。


しかし今から考えると彼からも寂しそうな雰囲気は一切漂ってなかった。


一人が心地よいのでしょうね。


以前、聞いた話ですが、友達ができなくて学食で一人で食べるのが恥ずかしいからと、トイレで食べる人がいるらしい・・・


「寂しい」のではなく「恥ずかしい」と言うのがなんだか複雑で難しいですよね(笑)


自分の感覚ではなく、外側の反応(一人ぼっちが恥ずかしい)を妄想して感じる価値観、、、主観を幼い頃に刷り込まされたと言う事ですからね。


一人は寂しい
一人は嫌だ


ではなく


一人は恥ずかしい


となる。


自分ではなく外側の意向を汲み取った感性ですよね。


小さい頃からたくさんのお友達と遊ぶ事が良い事だと思わされている雰囲気ありますよね。


小学生の低学年の頃、私もいつも通信簿に「一人のお友達とだけでなく、たくさんのお友達を遊びましょう」と書かれていた。


それを読んだ所で改善しようがない。


たくさんのお友達もいないし・・・いらないし・・・(笑)


幼少時、私はいつも怯えていた。


子供心にこの人(母)はあまり長生きしないと漠然とわかっていたから。


なのでいつこの世界からいなくなるかわからないお母さんのそばに居たかった。


できるだけ学校から帰ったら大好きな大好きなお母さんの傍にいたかったのだ。


だから友達とあまり遊ばなかったし、遊んでもなおチャンと言う友達だけ。


と、言うか「広辻なおチャン」だけで良かったし…


子供でもみんな、色々な事情があるのだよ・・・と
タイムマシンに乗る事ができるならあの時の担任教師に言いたい。


別に友達一人でも心配無用なんですよと・・・
友達いなくても平気なんですよってね。
そう・・・・大きなお世話だと。


日本人は特に個性よりも協調性を重んじる民族だ・・・・なので仕方がないが・・・


しかし。。。。
案外、友達がいなくて孤独を感じている人・・・・多いのではないかと思うのですよね。


だから以前も書いたが孤独死たる言葉が右往左往するのでしょう。


でもね~無理に友達を作る必要はないし、無理にグループに所属しなくてもいいと私は思っている。


作為的に友達を作ってもロクな事はない。


小学生の頃、わざわざ通信簿に「たくさんの人と遊びましょう」とアドバイスをすると言う事は「たくさんの人と遊ばない子はいけない子」だと言うレッテルを貼っている。


たくさんの友達のいない子は恥ずかしい事であると大人が子供に刷り込むから、学食で一人でご飯を食べれない子供達が隠れてトイレで食べる行為をおこなってしまうのですよね。



要するに「今日はいい天気ですね~」と私達は無意識に挨拶代わりに、この言葉を使っているが、この言葉のウラには「雨降りは悪い天気ですね」と言う意味が含まれている。


それと同じ。

「たくさんの友達と遊ぶ」
「友達を一杯作りましょう」


の裏側には極端な言い方をすると「たくさん友達のいない子は悪い子だ」と言っているようなものなのですよね。


運動場で一人で遊んでいると


「一人で遊んでるの?」と担任に聞かれた事があると、私と一緒で友人が少ない友人(笑)が言っていた。


一人で遊んでいるの?

と聞くと言う事は一人で遊んでいることを暗に非難している。被害妄想だと言われるかもしれませんが。


挙句に「友達100人できるかな?」と言う歌まで小学生にあがる前に歌わさられる。


100人も友達いたらエライ事だ(笑)


誰ともしっかりと付き合えないような気がしないでもない。


ただ、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪くなる。


そういう意味では、この担任教師は間違っていない。

私が社会に出ても苦労しないように注意してくれたのでしょう。



もう少し穿った見かたをするならば・・・・
奴隷を作るためには単独行動をさせてはならない。


自分で考えさせてはいけないのだ。

集団で動くクセをつけておけば奴隷として優秀になる。

出る杭は打たれるのだから・・・・


何が言いたいのかと言うと「友達がいないと言う事は恥ずかしい事ではない」と言う事です。


友達がいなくても充実した人生は送れる。


友達ではなくても人とちゃんと本音で、、、魂で話しができればそれで案外・・・・気持ちは充実するはず。


相手の魂に話しかければ色々な事に腹が立たないらしい。(私にはできないけど)

でもそうありたいと思っている。


いつかはそんな風に人と接したいと・・・死ぬまでに間に合わせたい。


そう思っている。


人とちゃんと接する事ができるもしくは、コミニュケーションをとれるという事と友達がたくさんいると言うことは違う。


自分をちゃんと表現できる事。。。。。それができれば極端は話、友達は必要ない(と、思う)


どんな人とだって親密になれる。



友達=親密な人間関係ではないように私は思うのです。


それが天使とか・・・・小人とか・・妖怪とか、妖精でもいいと思うのです。


信頼できる人間関係は友達じゃ~なくてもOKなんです。

友達はいなくても恥ずかしい事ではありません。


どうせ、どんなに大勢でいたとしても、内側が孤独であれば一人ぼっちで寂しい。


たくさん友達がいたって自分を誤魔化しながら付き合っていると苦しいし寂しい。


自分を素直に表現できなければ心は窮屈になる。


友達がたくさんいる

事と

素直に正直に人とコミニュケーションを取れるということは別の話。




一人ぼっちを恐れる必要はない。


一人メシもOK

大勢メシもOK


どんなメシも恥ずかしくない・・・・私はそう思います。



ただ時には寂しいかもしれませんけどね(笑)


そんな時はしっかりと「寂しい」を味わいましょう(≡^∇^≡)