「まほろ多田便利軒」って言う映画の中で、フランダースの犬がハッピーエンドか否か????と言うくだりがあった。


フランダースの犬を名作と言い、最終回で号泣したと言う人を私は多数知っている。


しかしわたしゃ~フランダースの犬は全然泣けなかったタイプの人間だ。


ハッピーエンドとも思っていないが、悲しい結末だとも思っていない。


死んでしまって終わる事が悲しい結末だと思う概念が小さい頃から私にはなかったようです。


だって誰でも皆、死ぬから。


少し横道にそれる話しをするが、この映画結構面白いです。


三浦しおん原作で、なんだか淡々と微妙に激しく経過していく感じがリズミカルでリアリティがある。


見ている方もその物語に参加していくような雰囲気になってくる。


まぁ何処にでもあるような映画なんですけどね、、、、女が絡まないドラマってある意味新鮮で気持ちいいんです。


元々この映画を見ようと思ったのは瑛太と松田龍平という渋めの暗い俳優が出てたからと言うのと、大森一家全面協力体制の映画だったから。


大森??と言われそうですが、、、、


舞踏家の麿赤兒と息子の大森南朋(弟)が俳優として出てて、監督が兄の大森立嗣。


そしてその脇をかためる俳優人も中々の人物達ばかりでした。


内容はネタバレになるので書きませんが、要するに生きていると言う事は傷つくと言う事だと、でもそれは生きていれば必ず修復されるのさ・・・・でもその修復は完全に元に戻ると言う事ではないのさ・・・と言うような趣旨。


違う形となってそれは修復されていくと。


この映画は「小指」が解釈のキーポイントとなっている。


幼い頃に主人公瑛太が同級生松田龍平の小指を落とすと言う大怪我をさせてしまった。


しかしそれは手術で元も戻った。


でも厳密に言えば、初めにあった形には戻らない。


普通に動くとしてもいびつな形になり、傷跡も残り、皮膚もなんだか冷たい。


だがそれでも何もなかったように傷跡は癒え、薄くなっていく。


こんな風に心の傷も元通りではないにしても必ず再生するさ・・・・・ってね。


自分に関心を示さず、ほったらかしにする両親を恨む小学生に瑛太が言うんですよ。


お前がどんなにがんばっても、お前が思っているような幸せはこない。


でもお前が生きていれば自分でお前の思っているような幸せを作る事ができるんだって。


中々深い。

私達は子供の立場で親に期待をする。
しかし親も未熟なんだ。


親と言うだけで私達が思っているような理想の親に全員がなれるわけではない。


私は随分前からそういう事を感じて生きてきた。


そして話は続く・・・・


「フランダースの犬」ってハッピーエンドだと思うか??と、親を恨む小学生に瑛太が尋ねる。


小学生は「思わないよ」と・・・・


松田龍平はハッピーエンドだと・・・・


瑛太は「死んでしまったら全部終わりだからな」と・・・


小学生は「生きていればやり直せるって言いたいの?」と・・・・


可愛くねぇガキなんですが。。。。


瑛太は「いや・・・やり直せる事なんてほとんどない」と答えるのだ。


それでさっき書いた、修復したとしても思うような形にはならないと言う事に繋がる。


瑛太は続けて言う


「元から親がいないのと、いても愛されないのとどっちがいいか、・・」


「多分、どちらにしても愛されることは無いだろうが、まだ誰かを愛するチャンスはある。与えられなかったものを今度はちゃんと望んだ形で、おまえは新しく誰かに与えることができるんだ。そのチャンスは残されてる」


そうなんだよな~なんて納得する。


こちらが望んだ形で物事がやってくる事はない・・・・


でもやってきた形をどう自分のモノにするかと言う事なんでしょう。


自分が納得できる形にするために生きる・・・・


子供にはまだわからないかもしれませんが、こういう風に子供にマジで話せる大人・・・・現実にはいません(笑)


でも映画ですからね・・・・ヨシとしましましょう~。


しかし少し切なくなる。


「元に戻る事もできず、再生もままならない」人災が今の日本に起こってしまったこと。


日本は自然災害に強い国だ。


大昔からどんな酷い災害があっても受け入れ再生する力を持っている。


なので今回の地震や津波だけなら再生していけたのだろう。そう・・・必ず立ち上がる。


しかしその後に起こった原発爆発による放射能汚染。


人類が始めて直面した現実に人はどうやって立ち向かい再生していくのだろうか・・・


二度と取り戻す事ができない美しい風景・・・・・安心して住む事ができる土地はもう日本にはない。



そんなことを考えると、なんだか切なくなるのですよね。




さて・・・・一番初めの「フランダースの犬」はハッピーエンドか?否か?


色々と意見はあるでしょうね。


ただ私的にはネロの境遇が可哀想とは思えず共感できるアニメではなかった・・・と、言う事だけは言えます。


こういう可哀想文学は日本人にはうけるのだそうです。


実はアメリカで放映されたフランダースの犬はハッピーエンドです。


フランダースの犬アメリカ版はネロとパトラッシュは死なず、父親が名乗り出てハッピーエンドになるという結末だそうです。


私達が知っている画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかった大聖堂の絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。


と言う話は「負け犬の死」と思われているようですが。。。。


ある記事では日本人の「滅びの美学」的価値観によって悲劇的結末のフランダースの犬が受けいれられたように取られているようですが、滅びの美学と言うのとは少し違うように思うのです。


子供のネロの死はいわゆる武士道のような滅びの美学ではない。


運命としてどんなに努力しても、どんなに正しくとも報われないような出来事がこの世の中にはあると言う事を知っているから共感するんじゃ~ないかな。。。と感じるのです。


報われない事、理不尽な事は必ずこの世の中にある。


そういう事を教えてくれるアニメを子供に見せるのもどうかなとは思いますけどね(笑)


そして悔しいけど、悲しいけど人を憎まなかったネロは清い心を持っている。


それは中々難しい事だけど、誰もが欲しいと思う心の一つでしょうしね。


私としては・・・・


「あ~死ねてよかったね、ネロ・・・・やっぱりネロ、あんたは素直で優しすぎるよ。そんなに素直で優しいと生きててもね~大変さね・・・」


なんて事を小さい時に思ったかどうかは忘れましたが、とにかく泣かなかった事には間違いない。


どうしてあれを見て泣くのがわからず不思議に思った事だけは記憶にあるのですよね・・・・


屈折した子供だったようですね。




まほろ駅前多田便利軒


インシャラー