今日は母道江の誕生日だ・・・・


母の死んだ日は覚えていないのですが、、、、、誕生日だけは覚えている。


9月27日


死んだ日をどうしても覚えられない。


なんだか気になってブログの昔の記事を探したら出てきた。


昭和58年7月26日 享年44歳 妙祐信女 


と、墓石に書いてあったとブログに載っていた(自分で書いたんですけど) (^o^;)


なんだか覚えられない。


と、言うか覚えたくないのかもしれません(笑)


私が感じているより、思っているより、道江の死と言う現実は受け止めきれないほどの衝撃だったんでしょうね。


道江が家を出てからしばらく会っていなかった。

死んだと聞かされたが結局、亡骸も見る事ができなかった。


死んだ事を認めたくなかったのでしょうね。


会ったのは骨になってから・・・・・・


そして死に様を聞いた。


迫り来る電車を背に正座して線路に坐っていたと・・・・・


道江が死んだ年齢をとっくに過ぎてしまった、今となってはもうどうでもよくなっているが・・・・


それでも。。。。自分の誕生日と道江の誕生日はなんとなくイノチを感じる事ができる日だな~なんて思うのです。


私は基本的にイノチが大切だとは思っていません。


こう書くと誤解されやすいかもしれませんが、イノチそのものが大切なのではなく、そのイノチをどう生きるかが大切だと思うのです。


量より質だと言う事です。


ただただイノチだけを生き長らえさせるだけの怠惰な生き方がイノチを大切にしているとはどうしても思えないのです。


そして傲慢に我欲の赴くままに自分の得だけを考えてイノチを使う事をイノチを粗末にしていると私は思うわけです。


欲求の赴くままに飲み食いし、身体を痛めつけ。

感情の赴くままに怒り、憎しみ、否定し続け精神を痛めつける。

自分の利益ばかりを追求し他者を傷つけ、自分の魂を傷つける。


そういう生き方をして長生きしたところでどうなんだろう。。。。


長生きが善ではない。

どう生きているかだ。。。と。


なので早世であっても、イノチを大切に生きて行く事の方がイノチを大切にしていると思うのですよね。


道江は早世だったが私は彼女のイノチを認めている。(時間はかかったけど)


道江と言う個性は大バカだけど彼女の魂と言うか無意識はとっても聡明な賢い意識を持っていたと思うのです。


どう生きたか。。。

これに尽きる。


私はまだまだ人に言えるほどのイノチを生きていない。。。


ホント焦るよな~






そうそう (^^ゞ


この世に生を受けた日を「誕生日」
この世を去った日を「命日」


と言います。


誕生日の「誕」って寿的な意味合いなのかと思いきや・・・・・全然違ったのです。


辞典で調べると


いつわり、うそ、でたらめ、気ままなどという悪い意味合いのある漢字なんですよね。


この世に生を受けた誕生日はウソの生が始まる日
この世を去る日、命日は本当のイノチが始まる日


とも取れる。


イノチにホントもウソもないでしょうけどね(笑)


この世は幻、マーヤであると・・・・言う考え方があります。


そんな幻の世界に生まれ落ちた日をウソのイノチが始まった日なんだと言われればなんだか納得がいきますよね。


この世界は架空の世界。

全ては必ず変化する・・・・
諸行無常・・・・


そんな架空の流れいく世界に執着して固定してしまおうとする人間の心が迷いとなる。


あと何年この幻の世界にいれるかどうか・・・わからないが、、、

イノチを大切に生きたと思ってあの世に行けるように私はイノチを生きたいと思うのです。


まだまだです。

でも間に合うように・・・・・精進しますでぇ~


そんな事を思う、母道江の誕生日。