もう今年も半分が終わろうとしていますが・・・・・・なんだか色々とありすぎてもう満腹って感じですね。


ただ個人的には安定した精神状態でのんびり感満載です。


ジタバタしても仕方がないし・・・・・右往左往してもねみたいな境地なのかもしれません。


とりあえずは目の前の事を丁寧にやろうってね。


忙しいと言う事もあるのですが、ブログの更新も滞りがちに。


書くと言う行為と意識状態の関係性には3種類あるようです。


気持ちに余裕のある時にしかアウトプットできないタイプと気持ちがきつい状態の方がアウトプットできるタイプ、気持ちに左右されずに書くと言う行為を行えるタイプ。


簡単に言えば・・・・

気持ちに余裕が無くなると書けないタイプと反対に書けるタイプと言う事です。


まあどんな時でも書ける。。。。。人もいるでしょう。


アウトプットする事が自分の内面にどんな影響を与えるかによって違うのでしょうね。


私は気持ちが不安定な時ほど書けるタイプです。


なんだか幸せ感があったり、気分が安定してたり、元気だったりすると全然書く気になれません(笑)


充足感があるほどアウトプットする必要がなくなるのですよね。


わざわざ自分を追い詰めてモノを書く小説家がいたりすると思うのですが、なんだか少しだけ気持ちはわかります。


自分が幸せだと書けない。


それはなぜか・・・


率直に言って「幸せ」「楽しい」「うれしい」は楽しくないし、面白くないからです。


悪趣味ですけど(笑)



毎日何もなく幸せで満たされている人の事を書いた小説なんて読みたくないのと同じです。


不幸の連続でそこに立ち向かって健気に生きて行く


とか


病気であと余命わずかと言われた少女が病に打ち勝つ


とか


(笑)


不幸の例を上げればきりがないが・・・・いくらでもある。


少し前に一世を風靡した「世界の中心で愛を叫ぶ」なんて典型的な悲しく美しい悲恋で純愛の話。


この世の中の不幸のアイテムが全部揃ってますから・・・・・


みんな架空の不幸で涙し自己に投影してカタルシスをしている。

無意識では誰も単調な何もない楽しい毎日を実は望んでいない。(はず)


でも、現実にあったら辛いのでフィクションで代用しているのでしょうね・・・・。(多分)


なのでですね~


私は。。。。自分の楽しいうれしい、美味しい、気持ちいい、話は書いてて楽しくないし書く意味がないんです。


それはそこで自己完結できる話なんで、自分が楽しくないわけです。(笑)


だから多分、のんべんだらりとそれなりに苦悩なく楽な毎日を送っている今日この頃の私としてはアウトプットできないんでしょうね。


苦悩とか悲哀とかの方がリアリティがあるサディステックな性質なんでしょう。


だからと言って・・・・・フィクションではそういうものを見るのは反対に苦手なんです。


自己への投影能力が高い為、リアリティありすぎて耐え切れないんです。


不思議ですよね。


実際に自分自身が壊れてしまうんじゃ~ないかと言うぐらいの苦悩を味わってしまうと、不幸仕立ての映画や本を読むと、その時の経験の感覚が浮上してきてしまうから、ガツンとマインドに効いてしまうんです。


今までそんなに辛い経験をした事がない幸せな人生を歩んでいるタイプの人は実際に苦悩するフクションを見たとしても自分が経験していないため、ダイレクトにマインドに入ってこない。


マインドとフィクションの間には緩衝材があるため、架空の物語で現実ではないと言う認識で見れる。


私は緩衝材がないため、実際に自分に起こっているようにマインドに伝わってしまい無意識下に深く侵入してしまう・・・・・から具合が悪くなってしまう。


不思議ですが・・・・・ 面倒な性質です。

映画もおちおち見てられないんですから。。。




ホラー、戦争もの、殺戮、暴力もんは特にアカンです。


いっきに具合が悪くなります。


不幸の連続で苦悩する映画もアカンです。



でも病気で死んでいく的なものは大丈夫。


これは「死」に対して私はとっても肯定的に捉えているからだと思います。


死は怖いものでも、不幸な事でも、悪い事でもないから見ていても大丈夫なんです。


勘違いされるかもしれませんが、ある意味、死は祝福だと捉えているからです。


もちろん身近な人が目の前からいなくなったら悲しいですし、苦しいです。


その感覚はよくわかるのですが、それと「死」は別ものとして捉えている。


悲しい「死」とは生きている人の「死」であって、死んだ人の死ではないので、分けて考えているわけです。


母親が自殺した。。。。。

私にとっての母が自殺し、死んだと言う事に関しては悲しいし苦しい出来事でした。


今だにそれを引きずっていきますから。


しかし母の死そのものはやはり祝福なんですよね。


おじいちゃんの死も愛すべき彼の死も親愛なる友人の死も同じです。


皆、私の前からいなくなると言う現実に対しては悲しいし苦しい。


でも「死」そのものは悲しい事でも苦しい事でもない。


わかりにくいですよね(笑)




私の独特な捉え方なので一般的ではありませんし、これが正解ではありません。


私が人の死に対して、考えて考えて、感じて苦悩した結果の自論なだけですから。


自分の心が感じる事とただ起こっているだけの現象は違うと言うことなんだと思うのです。


こんな事を考えながら電車に乗ってると通勤時間があっと言う間です(笑)