毎週一回、舞踏の稽古をしているのですが、稽古に入る前に呼吸法を30分ほどしてから稽古に入ります。
と、言うか・・・呼吸しているとそのうち意識が飛んできますから、そのまま動き始めて終わりの合図まで別世界を旅しているという感じなんですが・・・
その呼吸法は30分以上全員でウ・オ・ア・エ・イ・ンーを唱え続ける。
要するに倍音声明(オーバートーン・チャンティング)です。
この呼吸法を30分もやっていると、意識はすっ飛ぶわけです。
自分の音、仲間の音がミックスされて音を体で受け止め、感じ観る・・・・・
自分の内面に深く深く入っていくための乗り物ということですね。
この母音を発声する順番はチャクラの位置と対応していて、何年もやっていると体感として音とカラダのエネルギーセンサーの位置関係が明確になってくる。
そうすると滞っている場所もおのずとわかってくるのです。
毎回違います。
体調や精神状態で音も違うし、その受け止める身体の感覚も違う。
チャンティングが終わると後は自分の内面のエネルギーの流れにそって、そのエネルギーを身体で表現していくのです。
この舞踏の稽古の前準備というのはとっても大切で、、、現実から非現実の世界に向かうために一度自分の内側にあるエネルギーをリセットするためのものでもあるのです。
さっきまでワシワシと社会の一員としてビジネスライフに没入していたので。。。。この作業は欠かせません。
一旦まっさらにしてから無意識の海にダイビングします。
10年やっていますが、この数年やっと気絶せずに2時間そこにい続けることができるようになりました。
無意識と意識の境界に・・・
あっちとこっちの狭間に・・・い続ける事に耐えれるようになってきたのです。
以前はチャンティングの時点で気絶していましたから(笑)
私の意識は無意識の世界に耐えれないのですよね。・・・・
面白いものです。
言葉以前の世界というのは本当に怖いのです。
言挙げできない存在がある。。。事挙げできない存在には破れがないので、誤魔化しがきかない・・・
それほど怖いものはない・・・ということでしょう。
この世界にあるもののほとんどは名前がついている・・・・
だから私達は物事を客観視できる。
しかしそれを突詰めていくと、いつかどこかで客観できなくなる時点にいきつく・・・。
主体があって客体があって初めて客観視が可能になる。
でも客体、見られるものがないと客観視はできない。
主体(見るのも)は主体(見るもの)自体を見れない。
自分の目を直接、見ることができないのと似ているのかもしれません。
でも見えないけど、ないわけではない。見えなくても確かにある。
で、、、、名前をつけた。。。。
そのモノは安定し固定される。
でも名前をつけ固定した時点に歪が出る・・・・
神様にも名前をつけた
名前をついた時点で歪が出た
そう・・・それそのものではなくなった。
言葉にできない・・・・
言挙げできない存在
それが最終観察者。
それほど怖いものはない・・・・
昨日は舞踏の稽古中ずっと一本道が目の前に見えていた。
私の前に続く一本道。
先は見えない。
後ろもない。。。全てが「中今」
思考や感情のエネルギーはこの「中今」を見えなくする。
捨てるものが多すぎて・・・・恐れが先にたつ・・・
そんなこんなで二時間混沌として終わった舞踏の稽古・・・・
あ~ぁ。。。道は長いな~