昨今「努力」と言う言葉をあまり聞かなくなった。


どちらかというと簡単にどうやって幸福になれるか・・・という「幸福論」がもてはやされている。




幸田露伴の「努力論」という本を読んだ・・


すんごい難しかったけど・・・・努力して最後まで読んだ・・・だって努力論だし(笑)


序文に・・・


「努力している。もしくは努力せんとしている、ということを忘れていて、我がなせることがおのずからなる努力であってほしい。そうあったらそれは努力の真諦であり、醍醐味である」


と要するに・・・本当の意味での「努力」とは何か説いた内容でした。


努力をするという事を突詰めて考えてみいや~と言う事。


責任は自分にあるという態度で努力すると運が近寄ってくると。


「努力は辛いものだ」だけど、その辛さを突き抜けた所が生の意義だと・・・・


たぶん人間の欲望を満たす為にこの世界があるという事ではないのですよね。。。


自分の力を使いきり、努力している中で自己実現して行くプロセスを体験し続ける事が幸福だと言えるのかもしれません。


そして運が近寄ってきた時にどのような態度をとったらいいかということで、「惜福」「分福」「植福」の三つの考え方を示しています。


「惜福(せきふく)」とは、運を少しとっておく。


とっておくと言ってもケチケチするのではなくてガツガツしないという事でです。


お金のない人が宝くじに当たって有頂天になり身を滅ぼすというのは良い例です。


惜福とは逆をやっているのですね。


露伴は惜福の例として、徳川家康を挙げます。
家康はいい運が来ても、有頂天になることはなかったというのです。

巡ってきた福は使い尽くさないのがコツのようですね。


「分福」とは、いいことがあったら周りの人に分け与える。独り占めしないという事です。


例として挙げられるのが豊臣秀吉。


秀吉は周りの者たちに分け与えることを怠らなかったから、天下が取れたと言われています。



「植福」とは、自分のところにいいことが来るかどうかはわからないが、日頃から善い行いをふんだんにしておく。


要するに今、努力が実るとか限らないけど、福を植えることを怠らない。


植えられた福は徐々に成長して社会の発展に貢献することとなるんだよ・・・と言うことだと思います。


たとえば、木を植えても、自分が生きている間はその木は自分のためにならない。


でももしかしたら孫の代には木材として売れるかもしれないし、おいしい木の実をつけて人を喜ばせるかもしれないよ。


と・・・福はいつまでもなくならないんだよ~。  


これが植福ということですね。



実は私達もこの植福の恩恵を受けているのです。


先人達の苦労の上に、今の生活ができると言う事ですからね。


なので私達も後世に繋ぐ、植福を行って先人の恩を後世の人たちに返すわけです。


福を食い尽くして終わるのはちょっと恥ずかしいかもしれませんね。 



でも最後に露伴は言います。


これをやったからと言って絶対に幸福になるというわけではないと。


でも今生きているのなら、人として自分の行いに責任を持ち惜福、分福、植福を地道に積み重ねていくことが大切なんだよって・・・


現世利益・・・を志向する人々。


今、気持ちよくなりたい、

今、楽(らく)したい、

今、楽しみたい、

今、欲しい、

今、幸せになりたい・・・

今、今、今。。。。。と今すぐに何か結果が欲しいと私達は焦りすぎなような気がします。


どんな花が咲くかわからないけど、毎日水をやり続ける。


それは祈りであり、信じるということに繋がるのでしょう。






兎に角、文章が昔風でむっちゃ難しい。


飛ばし読み読みでセンテンスを吸収した感じです。

それでもなんとなくシンパシーは感じた本でした。



自分の事ばかり考えて生きていたらほんまアカンです。


だからきつくなっちゃんですよね。

人の喜びを我が喜びとできる所まで我を消せれば。。。少しは成長できるのですが・・・