先日知人が亡くなりました。
アメリカの方なので、年に二回くらいしか会わないのですが、とてもステキなロマンスグレーの女性でした。
彼女は巨大な母性を持っていて、会うと必ずハグをしてくれるのですが、ギューーって抱きしめられると涙が出そうになるのです。
その後、不思議なのですが、なんだか言葉で言い表せない感覚が体中に湧き上がるのです。
安っぽくなるのですが、言葉であらわせば「慈愛」という言葉なのかも知れません。
最後に会ったのは先月4月の中旬。
彼女と交わした最後の言葉・・・・・・
「See you~ Take care Bye~(^O^)/」
でした。。。
ものすごくお元気で、、、、また秋に会いましょうね、と言ってアメリカに帰っていった。
帰国後5月3日突然に体調が悪くなり病院へ、、、、、9日に入院、検査の結果、ガンということで17日に手術。
しかし転移があり、手術できなかったそうだ。
彼女は毅然と、冷静にこの肉体を去ると決心をされたそうです。
それから安からな日々をすごされ、4日後の21日に、たくさんの愛に見守られこの世を去られたそうです。
私はその話を聞いて、感動したのです。
祝福だ。。。。と。
彼女は全てやりきって肉体を脱いだんだと・・・・・
ギリギリまでエネルギーを使いきってサッと去る、この美意識。
イノチのあり方として完璧ですね。
まあ一番の完璧は消えてしまう事だと思うのですが、中々一般社会に触れて生活している人には難しいでしょうしね。。。。
この世界に順応しながらこの死に方はかなり完璧に近いと私は思うのです。
先日書いた、ピナバウシュと知人。。。。そしてもう一人、ピカイチのイノチの昇華の仕方をした人がいる。
緒形拳さん。
彼の命の消え方が完璧過ぎて非のうちどころがない。
彼の美意識を見た!という感じである。
緒形氏は書を嗜むらしく、評価も高ったらしい。
ご自身が書いた書を墨跡集にもされている。
その中の言葉で私の好きな「メメント・モリ」の中の言葉がある。
「その景色を見て、わたしの髑髏(シャレコウベ)がほほえむのを感じました」
この詩は藤原氏の「メメント・モリ」の中にある死に関する言葉の中でも、結構戦闘的・・・な言葉です。
人は肉の内側に骨格がある。
人が微笑むときは、頭蓋骨(しゃれこうべ)は笑わない。
その頭蓋骨の表面に張り付いた皮や筋肉が笑っているのである。
人間の喜怒哀楽は肉(筋肉)と皮膚の動きの現象を言う。
この「メメント・モリ」の作者は、あるインドでの風景を見て、この詩を書いた。
そこら変に転がっている死体を見て、その骨に纏いつく皮や肉は死んだように動かない。
しかしその内部の骨は微笑んでいる。。。。。そう見えた、、、そう感じた・・・・・
現世とは真逆・・・・だと。
緒方拳さんがこの詩の書を書いたときあたりに肝臓ガンを宣告されたと・・・・
そしてその頃、風のガーデンというロングランのドラマをとっていた。
鬼気迫る演技ですばらしかった。
クランクアップして二日目にドラマの記者会見を行い、その一週間後に彼は亡くなった。
歌舞伎役者のように虚空を見つめて亡くなったそうだ。
最後まで彼は俳優だったのでしょう。
イノチが完璧に昇華されて尽きる生き方・・・・・中々誰でもできるものではありません。
人生の師匠がほんとソコココにたくさんいます。。。。
さて緒形さんのしゃれこうべは微笑んだだろうか・・・・
人は病気で死ぬわけでないと・・・
生まれたから死ぬのだと・・・・・
この世界には絶対的なものがある。
それは老化と死。
その絶対的なものをちゃんと受け入れれば、魂にコクが出てくるのだと思います。
人間は生まれたら必ず死ぬ。
死亡率100%です。
これをちゃんと受け入れているかどうか。。。
たったこれだけで、生き方が変化するんだと私は思っています。
この事がちゃんとわかっていれば、謙虚にもなれるし、感謝も自然にできるようになる。
この世界からたくさんのモノをいただいている事も気づけたりもするのですよね。
イノチは限りがあるから大切に思える。
イノチが無限にあり続けるのであれば、それは粗末に扱われる。
でも現代人にはイノチが無くなるモノだという認識が希薄なのです。
なんだか自分だけは死なないような気がしている。
自分が明日死ぬとは思っていない。
明日も今日と同じように在ると思っているのです。
当たり前にあるイノチ・・・・・
でも、実際に私はこの(私の)イノチも(私の)人生も一体なんのかさえわかっていないのです。
あなたが当たり前にあると思っているイノチってなに?と聞かれても私は答えられない。
分からないものを絶対的なモノとして捉えている。
いつかは無くなるイノチに執着すること、これが人間の苦悩の一つなのでしょう。
そして。。。。一般的に人は「生きている事が幸福だ」という思想というか・・・前提がある。
その前提の上に色々なモノを積み上げて社会というモノが出来上がっている。
「生きている事が善、死ぬ事が悪」という観念です。
私がこの社会が生きにくいと感じる原因の一つです。
どうして死ぬ事はアカンことなのか???
先日、90歳のお母さんを亡くした人と話をした。
亡くなる日まで自分の事はできていたそうだ。
畑仕事をして、孫達に美味しいきゅうりやナスやら食べさしてやることが生きがいで、毎日せっせと野菜を育てていたらしい。
亡くなる日まで畑に入っていたと・・・・
すばらしい、、、、グレイト!と私は言いたい。
しかし娘は・・・・
「みんな大往生だというんだけど、まだまだ生きて欲しかった。それを(大往生)と言われると腹がたつ」と・・・・
唖然とした・・・・
イノチを完璧に昇華して死に逝く事は祝福だと・・・・
言う捉え方はまだまだ定着しそうもない。。。な~と・・・