あるセラピーワークを受けたと言う知人に「それでどうだった?」と聞いたら。。。
「あなたはそれで完全なのでありのままを受け入れていけばいいみたいな事をを言われた。。。」
「ふーん。。。。ありきたりやな~。。」と私が言うと
彼は「そうでしょう~そんなことお前に言われたかねぇ~っていう気分になった。。。」(笑)
「もしかしたらその心根がアカンのとちゃうの?素直に聞けない君のその心が!(笑)」
「まさしく!ははははっはっ~」という会話を今朝した所でふと思った。
こういうことを素直に言えていいのではないかと。
何でも受け入れるなんてことは本当にすばらしいことなのか?
この世界は本当にそれを望んでいるのかと思うのです。
外側を否定をせず・・・・人を恨まず、怒らず、悪口も言わず・・・全てを許し、全てに感謝できる・・・そんな聖人君子に皆、本当になりたいのか?
この世界がそんな人間ばかりになったら気持ちが悪いと思うは私だけでしょうか。。。。
それが正しい事なのかもしれないが、イノチは正しいことばかりをする為にあるのか?
そんな人生面白くもなんともない、そう思う私は邪悪な霊にとり憑かれているのかもしれませんけど(笑)
もし善しかない世界になるとしたら、現在の形態での世界ではないと思うのですよね。
今のこの世界には絶対的な善や悪というような幼稚園生でもわかるような、はっきりしたものはないようです。
大人にも、わからないこの世界の善と悪。
と!言うことは何を指針に生きていけばいいのかはもう自分次第ということになる。
その国々には独自に、ある程度の善なるライン、悪なるラインというものがある。
基本的にはなんとなくおぼろげに悪と善の境い目の遊び部分を理解しながら、悪のラインを超えないように境い目の遊び部分と善を行き来して生きていくのが大半の生き方。
グレーゾーンが大きすぎる中でかなり巧妙に人は道を歩いている。
例えば人を叩いてはいけない・・・と教えられるが、怒り心頭で子供に手を上げる親はごまんといるだろうし・・・・・自分を守るために叩くのは正当防衛として法律で守られてたりする・・・・
でも叩くと罪になるケースもある・・・・同じ叩くでも種類があるということである。
叩いても良いとされる範囲を人はなんとなく理解して、それを逸脱しないように行動する。
正常に機能する理性がある場合だけど・・・
精錬潔癖これが善だ~!と言うようなものを公明正大に伝えられると誰も口を挟む余地はない。
正論だから。。。。。
ただそれもまた盲信であり・・・妄想なのではないかと。
それを自覚した上で伝える必要がある。
どうせ悪も善もその境い目も虚像。でも虚像であっても決めなければいけないことは確か。
自分はどのラインで生きていくのかを・・・・
善だけで生きて行くのは侘しいような
悪だけで生きて行くのはきついような
境い目だけなら、それまたはっきりせず自分を見失い迷う
人はこの悪、善、その境い目を行き来して生きて行くのがなんだか一番自然なような気がしないでもない。
どれも体験し感じて考えて悩んで心が豊かになっていく。
私は自分の邪悪な心があるから、それに気づくと謙虚になれる・・・・
邪悪な心は誰にでもある。
私達は一人で生きているわけではないから、色々なものに巻き込まれ、影響されながら生きてる。
世の中は善や悪といった区分けだけで生きていけるものではない。
良い事も悪い事も相対的に起こる・・・・・そういう世界なんじゃーねーのかな・・・なんて思うのです。
私がリスペクトする精神科医の加藤清先生は・・・
人間の業をひっくり返すような悪いことをしろ。善人になろうとしちゃだめです。と言い切る。
良い子の私は業をひっくり返すような悪い事をする方が難しい道でしょうね。