この世の中の物はすべて、分子から出来ている。
分子は原子からできていて、原子は原子核と電子から構成される。
原子核は陽子と中性子から構成され、陽子と中性子はクォークから構成されている。
つまり、あなたも、私も、その辺にいる野良猫も、目の前にあるパソコンのモニターも、道に転がっている石ころも、全て同じものから構成されているということですね。
これって当たり前といえば当たり前なのですが、改めて言われるとどうですか?
この事実・・・・
考えてみると・・・・
私もあなたも、道に転がっている犬の糞も最終的には同じものから出来ているという事実です。
クォークという次元まで下がると、すべてのものが同じであると理解できるけど、それを実感することは難しい。
個(ワタシ)という概念が強すぎるからだと思うけど・・・・
ワタシと隣りのおっさんが同じであるとは、どうしても思えないし・・・・・まして私達は皆、繋がっているんだ・・・・とは中々頭ではわかっていても実感としては沸いてこない。
まして家族に対してさえも、この人達・・・遠い所にいるな・・・・と思うほどである。
だから私は・・・・大我が小我であり、私達の中に神がいる。。。。ゆえにすべては一つという精神世界論調は机上の空論のように思えて仕方がない。
しかしよく考えてみると、人間以外の自然には「すべてが繋がっている」という概念が通用しているように思える。
植物も動物も鉱物も自然に逆らわず、そのまんま存在しつづけている。
なんとかしようなんて思っているようには思えない。
水が無くなれば枯れるだけ、水害で流されそうになっても、どこかにしがみつく樹木はない。
動物もしかり・・・・自分達が食べる分をその都度食べ、生存に必要な最低限の営みで一生を終えていく。
彼らはテレパシーみたいなもので、お互いを感じ仲間か敵かを見分けながら、よい距離間の中で生きている。
必要以上に占領したり、開拓したりはしない。
そう考えると言葉をもたないということが、一番自然に近いと考えられる。
私達人間が持っていて、自然が持っていないもの・・・・・
それは
「心」
この心が不自然というものを生み出し、人間のエネルギーの本来の方向性である不安定な存在である事に逆らい、安定するために様々なものを固定しようとして人間は「言葉」を作った。
そして自分と他の境界線を明確にした。
でもすんごい前は人間も自然に近かったのではないだろうか・・・・・
言葉が殆どなく、動物に使い状態で自然と共に生きていた頃。。。。
生存するための最低限の営みしかしていなかったという時代。はじめ人間ギャートルズの世界です。
しかし自然と共に生きるということは、自然に翻弄されて生きるということであって、死というものがとっても近い生活であっただろう。
食べ物がなければ死ぬ・・・・(蓄えるということを知らない)
動物に襲われる・・・・・(家がない)
洪水、干ばつ・・・地震・・・などなど天災に見舞われても、逆らわず・・・ただただそのまんま。。。。。流れに任せて死んで行く。
そのままでいいということは、そういうことなのだ。
しかし人類はどこかで「生きたい」と思った・・・・
「自然に則して生きる=自然に翻弄され死んでいく」
人類はその事に疑問を持った。
「そのまんまやん・・」と思ってしまったのである。
「そのまんまではあかん・・・」
それで「言葉」を作り「文字」を作り・・・・物を固定し始めた。
「ここには穴があるから近づくな!」たったこれだけの言葉があるだけで、どれだけの人が死なずに済むか・・・・
身を守る「家」を作り・・・
いつでも食べる物に困らないように「蓄える」ということを覚える。
生きるために・・・・
「そのまんまでいい」というのは、人類が生存していくためには障害になる。
「生きたいねん」
「すやからそのまんまやったらあかんねん」
水がこんように、動物に襲われへんように高いとこに家作ろうとかね・・・・
だから色々なものとの境界を作り始めた。イノチを守るために。(多分)
もしかしたら自然から分離して今の人類が出来た。。。。。としたら
だったら自然に帰るのは難しいだろう。そのまんまに帰ることは不可能に近い。
そして私達は繋がり一つになるということは中々至難の業(技)である。
今までの流れと反対の向きなのだからね。
この世の中の物、すべての構成は同じクォークという物質で出来ている。
だからすべてが同じであると言えるが、私は想像する。
人だけは違うのではないかと・・・・・
物質クォークにピトッo(^^o)(o^^)oて、何かがくっついている。
なんかモワモワしたモヤのような「そのまんまやったらあかん」という【思いの露】が人間の素粒子にだけまとわりついている。
それが人間の証ではないか。
なんてね、ちょっとほざいてみました~